風のテイル

1.運命のイタズラ

 あー、憂鬱だ。
 ガッコに行くのが鬱陶しい。
 受験勉強の甲斐あって、やっと城北高校に入学して陸上部にも入部できたっていうのに、なんでこういう目に遭うんだろ……。
 最近、朝目覚めると、既に疲れている。
 これは登校拒否の前兆じゃないだろうか。
 なんだか4月の頃に比べると、顔もやつれているような気がする。
 無理もないな。いろいろと気苦労が多いんだもんな。
「春彦、いつまで顔洗って鏡見てるの。まさかヒゲが生えてきたんじゃないでしょうね。アタシ、春彦がヒゲを剃ってる姿なんて想像しただけでもゾッとしちゃうわ。ねえ、ヒゲが生えてきたの?」
「母さん!」
 俺は洗面所を飛び出してキッチンに駆け込み、母さんを睨みつけた。
「アンタも女親なら、息子が気にしてること、朝っぱらからいちいち怒鳴るなよな。ヒゲなんて、まだ生えてねーよ」
「そ、よかった」
 何がよかった、だよ。
 息子が水泳の授業やなんかで裸になるたびに、
(俺ってもしかして男性ホルモンが足りないんじゃ……)
 と真面目に悩んでることなんか、全然知りもしないクセに。周りの連中はヒゲが生えてきただの、チン毛がモサモサになっただのと自慢し合ってるっていうのに、俺なんか、腋の毛だってまだ1本も生えてないんだぜ。
「ほら、春彦、そんなとこに突っ立ってないで、早く座って食べなさいよ。そろそろお迎えが来る時間じゃないの?」
 母さんは鼻歌まじりにトーストにマーマレードを塗って、俺の前に置いた。
「あ、そうそう、忘れるとこだった。アンタ今日、学校でプールがあるんでしょ。ちゃんと水着は用意したの?」
 ため息、だ。
「ああ、ちゃんと持ってるよ」
 くっそぉー、もし俺が登校拒否になったら、その原因の第1号は、間違いなくアンタだぞ、母さん。
 あー、やだやだ。
 ガッコなんか行きたくない。プールなんか入りたくない。
 早く2年生になって、クラス替えがないもんかな。いや、この際ゼイタクはいわない。席替えでもいいんだ。
 あれやこれやと思い悩むことが多くて、うだうだとパンをかじっていると、インターフォンがピンポーンとせわしく鳴った。
 母さんが時計を見上げて、
「ほら、お迎えが来たわ。さっさと食べないからよ。……それにしても、時間に正確な子ねぇ」
 と、感心したようにいった。
 来たか、登校拒否の原因、第2号が……。
 俺はどっと疲れながら、カバンを抱えて家を出た。
「なんだ風間、まだ朝メシ食ってたのか。口の周りにパンくずついてるぞ」
 開口一番、矢野武則が陽気にいった。
 俺は手の甲で口元を拭き、ガックリと肩を落とした。
 楽しいはずの高校生活を暗くした最初の人物が、毎朝ヒゲは生えたのかとクドクドと尋ねて来るあの無神経な母さんだとすれば、2人目は間違いなくコイツ、矢野武則だ。
 だいたい、合格発表で矢野の名前を見た時から、嫌な予感はあった。
 それがクラス分けで的中した。
 大親友の真壁健一はE組で、俺はC組だった。他にもAやBやDやFといった具合に、全部で6つもクラスがあるのに、俺が毛嫌いしている矢野武則は、どういう訳か俺と同じC組になった。
 確率は1/6だが、なんでその1/6の確率で俺と矢野が同じクラスに当たらなきゃならないんだ。これはもう、因縁としか思えない。
 しかも、何を考えているのか知らないが、矢野は選択科目とか課外授業とかのたびに俺の後ろにくっついて来て、部活まで、また俺とおんなじ陸上部に入部しやがった。
「体操部の方がマッチョがそろってるし、俺には向いてそうだな」
 って、ブツブツほざいてたクセにな。その挙げ句、いまじゃ幼稚園児よろしく、
「おーい、ガッコに行くぞ!」
 と、毎朝俺を迎えに来る始末だ。
 クラスの連中は、よほど古くからの大親友だと信じて疑わないようだが、真壁ならともかく、俺は矢野のことを親友だと思ったことなんか1度だってない。たまたま家が近所だった、それだけのことなのである。
「おい、矢野、ウチの母親がお前のこと、時間に正確な子だと笑ってたぞ」
 駅までの道を並んで歩きながら、反応をうかがうようにいってみる。
「お迎えが来たお迎えが来たって、いっつもからかってんだ。やっぱりさ、小学生じゃあるまいし、誘い合って登校するなんて、おっかしいんじゃねえのか?」
「まあいいじゃないか。ガッコに行く途中に風間の家がある。そのついでだよ」
「頼むからさ、俺ん家の前、素通りしてってくんないかな。なんか落ち着かないんだよ。朝メシ食ってても、そろそろ来るんじゃないかって、気になってしょーがない」
「ハハハ…」
 何がハハハ、だ。俺が嫌がってんのがまるで分かってないな、コイツ。
「ハッキリいうとだな、俺が風間に対して“特別な友情”ってもんを感じてるからだよ」
 そーら来た。
「“特別な友情”っていってもよー」
 俺はそれとなく、話をかわした。
 そう力強く断言されても困るんだよ。
 これは内緒の話なんだが、実はこの矢野武則ってヤツは男好き、俗にいう“ホモ”なのだ。
 当然、本人はそんなことはお首にも出さないが、それは事実なのだ。
 中学1年の秋、同じクラスの男子から、
「先週、体育器具庫の中で『俺とつきあってくれ』と、矢野に真顔で迫られた」
 などと、青ざめた顔で相談を持ちかけられたことがあった。
 浅黒く日に焼けたジャニ系顔がカッコかわいい男だったが、そんなことをいわれても、俺はすぐにはその話を信じることができなかった。いや、たぶん俺だけじゃない。毛深くて骨太でマッチョで、見るからに無骨者の矢野武則がホモだなんて、あの頃、周りの誰1人として気づく者はいなかっただろう。
 結局、矢野にコクられた彼は、親の仕事の都合とかで関西の中学にさっさと転校してしまい、事なきを得たのだが、その代わりに矢野武則は、なんと今度は執拗に俺に近づいて来るようになった。
 もしかしたら矢野のいう“特別な友情”というのは、そういうことなのかもしれない。
 そう思うと、気が滅入らずにはいられないのだ。
「何ヘコんでんだよ風間。最近、元気ないな。ひょっとしてまだ5月病引きずってんのか?もうとっくに6月なんだぜ。元気だせよ。そんな風に沈んでるとな、勉強とか部活とか、各方面にさしさわりが出るぜ。ハハハハ…」
 ふん、こっちがとっくにさしさわってるのなんか、全然知らないんだろ。このヒゲ男。
 俺が横目でシカトしてると、
「よし、じゃあ俺が元気のでる話をしてやるから、昼休み、期待して待ってろよ」
 矢野が意味ありげなことをいった。
(元気のでる話かぁ…)
 いまの俺に元気のでる話といえば、席替えぐらいのものだ。もっとも、これだって根本的な問題の解決になるとは思えないのだが……。
 あー、鬱陶しい。

 俺たちは、他愛もない話をしながら駅の改札に定期券を通して電車に乗り、2駅隣りの城北駅で電車を降りた。
 どこかスッキリしない気持ちのまま校門をくぐり、教室に入った。
 隣りの席のヤツは、もう来ていた。
 俺が机にカバンを置くと、文庫本をめくる手がピタリと止まった。
 俺はこの時、いつも激しく祈るんだ。そう、席替えがあってからこの1ヶ月あまりというもの、いつもだ。
(おはよう、って、いってくれ!隣りの席のクラス・メートに対して、ごく自然な態度をとってくれ!)
 だけどそいつは、文庫本のページから全然目を離そうとはしない。
 俺は席に座って、カバンの中から単語帳を取り出した。
 最近、朝のホーム・ルームが始まるまで、実に意欲的に自習しているような気がする。
 それはもちろん、隣りとの接触を避けるためだ。
 こういうのは、ホントは好きじゃない。誰かを避けるなんて、白黒をハッキリさせたい俺の性格に、全然合わない。
 だけど、だからってどうすればいいんだ。

 ――――今度会っても、お互いに無視しよう。その方がいい。俺も無視する。まあ、もしも今度会うことがあればの、話だけどな……――――

 あの時、大崎真二郎はそういった。
 真二郎の口調は静かだったけど、同時にゆるぎがなくて、たぶんコイツは、2度と俺には会うまいと決心しているのだろうと、思ったものだ。
 真二郎は、こうと決めたことは必ず実行する男だ。
 こんなカタチでの再会を、真二郎は、心底嫌がっているに違いない。
 しかし、こんな気詰まりな状態に長く耐えられるほど、俺は我慢強くない。
 このままでは、いつか必ず、真二郎とぶつかる日が来るだろう。
 そうすりゃ、同じクラスの矢野が、きっと何か勘づくに違いない。
 俺と真二郎がどういう関係なのか、過去に何があったのか、矢野は必ず知りたがるだろう。
 けれどもそんなこと、ホモである矢野になんか、俺の口からいえるはずがない。
 出口なしとはこのことだ。
 俺のヒゲが生えないことを期待している母さんにも頭にくるし、俺のそばから離れようとしないヒゲヅラ男の矢野の存在にも頭にくる。
 しかし、俺が一番頭にくるのは、大崎真二郎と同じクラスで、しかも席が隣り同士だという運命のイタズラだ。
 ああ、登校拒否の日は、近いぞ。
2.陸上神ご降臨!

 その日の昼休み、親友の真壁健一が、弁当を持ってC組にやって来た。
 真壁のクラスはE組だが、いつからか俺たちのC組で弁当を食うようになっている。
 俺としても、ヒゲヅラの矢野と顔を突き合わせながらの昼メシは、いい加減ウンザリだったので、こうして真壁が来てくれるのはヒジョーにありがたいことだった。
 けど、高校生にもなって、男同士が一緒に昼メシを食うというのも、どうしたもんかと思うのだ。
「真壁、お前、同じクラスに嫌いなヤツでもいるのか?」
「なんでさ。そんなのいないよ」
 どちらかといえば無口な真壁は、ボソッと短く答えて、弁当のフタを開けた。
 真壁の実家は仕出し屋サンなので、おかずはいつも前日の残りもの。時には、盆と正月が一緒に来たみたいに豪勢だ。
 俺は、真壁の弁当箱からエビフライを選んで口に運びながら、
「お前の弁当が食えるのはうれしいんだけどさ、なんか、あんまり毎日来るのもどうかと思って」
「ひょっとして真壁、このクラスに好きなヤツでもいるんじゃねぇのか?」
 矢野も、ずうずうしく真壁の卵焼きをつまんで口に頬張りながら、冗談っぽくいった。
「何いってんだよ、お前は」
 俺は、せせら笑った。
 自慢じゃないが(実際、他人の境遇を自慢するなんてバカみたいな話だが)、真壁はひどくルックスがいい。
 男の俺の目からみても、超ハンサムだ。
 そういうヤツの本命が、これといって目立った美人のいないC組にいるなんぞ、チャンチャラおかしいってんだ。
「真壁はお前と違ってC組のオンナなんか、ダサくってつきあえないって。なぁ、そうだよな、真壁」
 笑いながら真壁を見た俺は、
「ん!?」
 と、箸が止まった。
 日に焼けた真壁の超ハンサム顔が、うっすらと赤らんでいるではないか。
(真壁、お前まさか……)
 俺はビックリして、
「おい、真壁……」
 といいかけた時、
「よぉ、風間、ご要望に応えて、さっそく来てやったぜ」
 陸上部の主将で3年生の大崎孝一郎先輩が、弁当を持って俺たちの前に現れた。
「どどど、どうしたんすかっ!孝一郎先輩っ!?」
 思わず声をうわずらせながら尋ねると、
「いや、そこにいる矢野がな、たまには一緒に昼メシでもって、この俺を招待してくれたんだ」
「や、矢野がですかっ!?」
 見ると、矢野は上機嫌で近くの机をガタガタと動かし、せっせと大テーブルをつくり始めている。
「なんだ、風間じゃなかったのか?お前がいい出しっぺだって、矢野から聞いてたんだけどな」
「えっ…」
「おい矢野、お前どういうつもりなんだ」
「違うんですよ先輩、風間のヤツ、最近元気がなくてヘコんでるみたいだったから、ちょっと先輩のオーラをお借りして、励ましてやろうかと思って」
 矢野が、いけしゃあしゃあといった。
(そうか、元気のでる話をしてやるから、昼休みに期待して待ってろって矢野がいったのは、このことだったのか。だけど、たったそれだけのために、3年生の孝一郎先輩を呼び出してしまうなんて、なんというずうずうしさだろ……)
 さすがの俺も、ちょっと面食らった。
 しかし、まあ、元気のでる話というのは、間違いではないのだ。
 だって孝一郎先輩は、俺がいま1番憧れているヒト、俺にとっての陸上の神サマなんだから。
 あれは3年前、俺がまだ中1だった年の、市の陸上競技会でのことだった。孝一郎先輩は、各部門の短距離走において、市大会新記録を立て続けに連発して大活躍した。
 それを目の当たりに目撃した俺は、あんな素晴らしい先輩と1度でいいから一緒に練習してみたい、2人で並んで夕焼けのグラウンドを走ってみたいと、熱烈に憧れたものだった。
 実はそのことが動機となって、俺は孝一郎先輩と同じ、この城北高校に進学したのである。
「なあ、風間……、やっぱり場違いだったかな、俺がのこのこ入り込んだりして。もしかしたら1年のツレ同士、水入らずでメシ食った方がよかったんじゃねーのか?」
「んなことないっすよ、先輩」
「そうっすよ。春彦のいう通りっす。孝一郎先輩なら、俺も大歓迎っす」
 いいながら、真壁がチラリと俺を見て、ニッと微笑んだ。
 さっきのオンナの話題が途中で途切れたので、ホッとしているらしい。
 まあいい、真壁の本命については、あとでじっくり俺が追及してやる。
「あれ、そういや君は確か……、確か入部テストん時、ウチの陸上部に長距離部門がないっていうんで、仕方なく駅伝部に部活を鞍替えした、名前はえっと……」
「俺、真壁っす」
「そうそう、真壁だ、真壁健一」
「えっ、なんで下の名前まで?」
「駅伝部の主将の水野はな、いま俺とおんなじクラスだ。君の噂はかねがね、水野から聞いて知ってるぜ。なかなかいい走りのセンス、してんだってな」
「そんなことないっすよ。でも光栄っす。先輩みたいな有名な方に、自分の名前を覚えてもらえるなんて」
 そうこうしているうちに大テーブルが出来上がり、真壁と矢野が、隣同士で俺の前に座った。そして孝一郎先輩が、空いていた俺の隣りの席に、どかっと腰をおろした。
 うーん。こうやって間近で見ると、やっぱり高3だけあって、俺らとは体のつくりや大きさが全然違うな。首のつけ根や太腿なんか、見るからに頑丈そうにできてる。
 こめかみから下顎にかけてうっすらと生やした無精ヒゲも、純日本的な凛々しい顔立ちに妙にさまになっていて、同じヒゲでも、矢野のキタナらしい無精ヒゲとは大違いなのだ。
(やっぱカッコいいよなぁ、孝一郎先輩は……)
 俺が羨望のまなざしで、ポケーっと見惚れていると、
「どうしたんだ風間、俺の顔に何かついてんのか?」
 孝一郎先輩が、ぐいっと身を乗り出して顔を寄せて来た。
「いっ、いえ、そういう訳じゃないっす」
「変なヤツだな」
 照れくさくてツイとソッポを向くと、視界の端に真二郎が見えた。
 たったいま手洗いから教室に戻って来たという感じで、ハンカチを手に入口のところでボサッと突っ立っている。
 自分の机と椅子が俺のにくっついて大テーブルになっているので、座るとこがないんだ。
「よぉっ、どこに行ってたんだ」
 孝一郎先輩が真二郎に気がついて、めっぽう明るくいった。
 それもそのはず。
 信じられない話だが、孝一郎先輩とあの真二郎は、なんと血を分けた兄弟なのだ。
 俺がその事実を知ったのは、入学式の翌々日、陸上部の入部テストが行なわれた当日のことだった。
 放課後、陸上部の部室に入部届を持って行ったら、真二郎も、部室に来ていた。
 その時、受付に座っていたのが顧問の水谷センセと孝一郎先輩で、その場の会話から、2人が兄弟だという事実を知ったのだ。
 いわれてみれば、孝一郎先輩も真二郎も、苗字は同じ大崎だ。ちょっと勘を働かせれば、考えつかないことでもなかったのだけれど、顔とか体つきがあまりにも違うので、まさか血のつながりのある兄弟だとは、思いもしなかったのである。
「何やってんだ、早くこっちに来てお前も弁当食えよ!」
 孝一郎先輩に大声で促された真二郎は、無言で小さく頷いて、あろうことか、空いていた俺の後ろの席に座った。
(ううう、まずいぞ。この展開は実にまずい)
 憧れの孝一郎先輩とワケありの真二郎に周りを包囲されちゃ、気になって、ろくにメシも食えないじゃないか。
 ああ、なんの因果で俺がこういう目に遭わなきゃならないんだ。
 くっそぉー。
「どうした風間、さっきからそわそわして。俺が隣りにいるのが、そんなに気に入らないのか?」
 孝一郎先輩が弁当を食べながら、俺の様子をうかがうようにしてこっちを見ている。
「ま、まさかそんな」
 俺がうろたえて口ごもっていると、正面から首を突っ込むようにして、矢野がしゃしゃり出て来た。
「先輩、コイツ、そんな理由でそわそわしてるんじゃないっすよ。たぶんその逆っす。何しろ風間のヤツ、中1以来、ずっと孝一郎先輩に憧れ続けていたんすからね。今日は先輩がそばにいて下さるんで、うれしくて、ホントは弁当なんか食ってる場合じゃないってのが、正直なところじゃないっすか?」
「バっ、バカ野郎、矢野、そんなこと孝一郎先輩の前でよくも」
 俺は急に恥ずかしくなって、先輩の顔をまともに見ることができなくなった。
「俺に憧れてるって、ホントなのか、風間」
 うつむいている俺の顔を下から覗き込むようにして、孝一郎先輩が尋ねてきた。
 いうまでもなく、俺の顔はいま、ゆでダコのように真っ赤になっているはずだ。
 めちゃハズイ。
「いえよ風間、ずぅっと先輩に憧れてました。すっげぇ、カックいいっす、ってさ」
 矢野が、うれしそうにいった。
 俺は椅子に座ったまま、なんとなく、しゃんと背筋を伸ばした。
 気の所為か、背後から殺気を感じるのだ。
 そうだ、俺の後ろには弟の真二郎がいる。言葉には気をつけた方がいい。
 どう返答したものかと、俺が困惑していると、それまでムッツリと黙り込んでいた真壁が、ふいっと、矢野に非難がましい目を向けた。
「おい矢野、お前ちょっとデリカシーに欠けるんじゃねーのか?俺、こういうのって好きじゃねーな」
「好きじゃないったって、風間が先輩に憧れてるのはホントのことじゃないか。真壁だって、それくらい知ってるだろ」
「ああ、知ってるとも。中1ん時の市の陸上競技会で先輩を初めて見かけたことも、先輩のようになりたがってたことも、先輩と一緒にグラウンドが走りたくて、この城北を受験したこともぜーんぶな。けど、ヒトがヒトに憧れる気持ちってのは、もっとデリケートなものなんじゃねーのか?少なくとも、こんなにたくさんの人がいる場所で、わざわざそれを本人にいわせる必要はねーだろ。春彦がかわいそうじゃねーか」
 真壁の声には、明らかな非難の調子があった。矢野はバツが悪いのか、ビックリしたように目を白黒させてる。
「もしお前が春彦の立場だったらどうする。先輩に憧れてました、すっげカッコいいっす、なんて、こんな皆の前で正面切っていえんのか、しかもメシ食いながらよー」
「えっ、いや……、それは……」
 矢野は、横目でチラチラと孝一郎先輩をうかがいながら、うろたえてモゴモゴと口ごもっている。
 へへへ、ざまーみろってんだ。
 どういう下心があるのかは知らないが、残念だったな、矢野。真壁は俺の大親友だ。
 いつだって、俺の味方なんだよ。
 気をよくして真壁の弁当箱を突っついていると、真壁が、今度は俺に噛みついてきた。
「春彦も春彦だぜ。矢野にそんなこといわれたぐらいでモジモジしてさ。ホントのところ、何かあったんじゃねーのか?ここんとこ元気がないのは事実なんだから、俺もけっこう心配してるんだぜ」
「な、なんにもないよ」
「そうかな、春彦って根が正直だから、様子がおかしいとすぐに分かるんだけどな」
「もう、ごちゃごちゃいうなって」
 どうして俺の周りには、こう、労力を惜しまないおせっかい焼きが多いんだろう。
 そうかと思えば、いまだ完全無視を決め込んでいる真二郎みたいな強情なヤツもいるし……。
「おい、風間っ!面会人だぞっ!」
 その時、入口近くのヤツが、大声で怒鳴った。
 俺は食いさしの弁当を机に置いて、立ち上がった。今日はやたらと忙しい日だな。
「面会人って誰だ」
「B組のヤツだったけど」
 教室を出てみた。
 どこにもそれらしいヤツがいない。
 変だなと思いながらウロウロと歩いて行くと、階段の下に立っているオトコが目についた。
 俺と目が合うとひょいと頭を下げ、おいでおいでと手招きをする。面会人って、あれか。
「俺になんか用か」
 オトコは、ポケットから1通の封筒を取り出し、俺の前に差し出した。
「これ、家に帰ったら読んでくれ」
「なんだ、これ?」
「ラブレター」
「……悪いな、俺にはそーゆー趣味はない」
「隠してもダメだ。僕は中学時代、北斗中学の陸上部員だった。市の陸上競技会の時、医務室でお前らが何をやっていたのか、僕はちゃんと知っているんだぞ、風間春彦」
3.あの時も、そうだった

「気やすく俺の名前を呼ぶな。俺はお前のことなんか知らないね。それに、陸上競技会の医務室のことって、いったいなんの話だ」
 声をふりしぼってそれだけいって、ソッポを向いていると、オトコがため息をつくのが聞こえた。
「トボけんのなら、まあいいや、昔のことはどうでもいい。いまここでしゃべってると人目につくし、昼休みはあまり時間がないからな……。もしよかったら今日の放課後、3階の美術室に来てくれないか」
 オトコは笑いながら、畳みかけるようにいう。
 俺はいよいよ頭に血がのぼって、パニックになった。
 いかんいかんと思っていても、次第に俺の顔が赤くなってくる。
「放課後はまずい。俺にも部活がある」
 俺が顔を赤らめたまま、口の中でモグモグいったのをなんと誤解したのか、オトコの顔が、パッと明るくなった。
「放課後がだめなら、じゃ、いつがいいんだ。明日か、あさってか」
「あ、明日ってお前なぁ、いつだってまずいんだよ」
「え?」
「とにかく、美術室なんてネクラな場所へ行くつもりもないし、この手紙だって受け取れない。ラブレターです、なんていわれて受け取れるもんか。こんなもん、知らないオトコからもらったって困るんだよ」
 そういった途端、それまでアイドル歌手みたいに爽やかだったオトコの形相が一変した。
「じゃ、知っているオトコからならいいっていうのか」
「いや、そういう訳じゃないんだ。ホントに困るんだ、こういうのは」
「他に好きなヤツでもいるのか?風間と同じ、クラスのヤツか?」
「そういうのは、あんたには関係ないだろっ!」
 声を押し殺すようにいった俺の言葉が、相手のプライドをいたく傷つけたらしい。
 オトコはキッと俺を睨みつけ、俺の手から手紙をひったくるようにして、ものもいわずに立ち去った。
 放課後に俺を美術室に呼び出したということは、たぶん美術部か、その辺の文化部のオトコだろう。
 けど、俺は何も、そんな意地悪でいったつもりじゃないんだ。
 ただひたすら、この厄介な状況から抜け出したい一念で、“あんたには関係ない”といっただけなんだ。
「いてっ……」
 手の甲がジンジンするので、見ると、爪の引っかき傷があった。
 オトコが手紙をひったくる時に、勢いあまって引っかいたのだろう。
 しかし、こんな風にどんな形ででもいいから、アイツが恨みを晴らしてくれたんなら、俺もスッキリする。いっそのこと、頬っぺたのひとつもパーンとたたいて忘れられるもんなら、そうしてくれた方が、アイツだって気分的に踏ん切りがつくってもんだ。
 真二郎のヤツも、早くそんな風にして……――――
(ん?)
 人の気配がしたので顔を上げると、当の真二郎が立っていた。
「真二郎……」
 いつからそこにいたのだろう。
 真二郎は、ピタッと俺に目を当てながら、ゆっくりと階段を近づいて来た。
 そして、俺と触れ合うくらいスレスレに近づいて立ち止まり、あっ!と思う間もなく、パーン!と俺の頬っぺたをたたいた。
 強くはないけれど、弱くもない。奇妙な殴り方だった。
「なんでだよ」
 ビックリして思わずいうと、真二郎は鼻で小さく笑った。
「ふっ、さっきのオトコの代わりさ。お前いま、こういう心境なんだろ」
 城北に入学して2ヶ月あまり、さんざん無視した挙げ句の初めてのセリフがこれじゃ、あんまりだぜ。
 けど、ようやく口をきいたな。なんか、ホッとする。
「見てたのか」
「ああ、一部始終な。相変わらず不器用なヤツだ」
「人間にはな、得手不得手ってもんがあるんだよ」
「俺は不器用なヤツって、嫌いじゃないぜ。だって、嘘つかないからな。ところで、風間の好きなヤツって、どっちなんだ。無精ヒゲ生やしたマッチョの方か?それとも、浅黒く日に焼けたイケメンの方か?」
「…………」
 巧妙な訊き方だ。
 こういう訊き方をされちゃ、嘘をつく訳にもいかないじゃないか。
「俺が当ててやろうか。日に焼けたイケメンの方だろ」
「…………」
「図星だろ。だってアイツ、俺に似てるからな」
「似てる?」
「似てるよ。お前、気がついていないのか?」
「似てねーよ」
「似てるって。“気が強そうで負けず嫌いで、それでいてどこか冷めていて、けど、胸の内には秘めた情熱が溢れ返っている。好きだ。そういうの。まぶしくて見つめるのが怖いくらい、カッコいいと思う”」
 真二郎は、楽しそうにいった。
 俺は、真っ赤になった。
 なんというキザなセリフだ。
 もちろん、ちゃんと覚えている。3年前、俺が真二郎にいったセリフだ。
 しかし、こうしてあらためて他人の口から聞かされると、裸足で逃げ出したくなるほどキザな言葉だ。
「アイツも、きっとそんな感じなんだろ。なんていうんだっけ、フルネーム」
「――――真壁、健一」
「ふーん」
 真二郎は、その名前を味わうように、ゆっくりと口の中で繰り返した。
「真壁健一、か。アイツ、嫌いだな」
「ハッキリものをいうんだな」
「矢野が俺の兄貴まで呼び出して、必死にお前のご機嫌取ろうとしてるのに、横で知らんプリを決め込んでてさ、デリカシーに欠けるとか、春彦がかわいそうだとかいっといて、そのくせお前が兄貴に憧れてたことなんか、当然ぜーんぶ知ってます、みたいなこといってさ……――――。あれって自分に自信がなきゃ、いえないセリフだぜ。風間に好かれてる、1番身近にいるのは俺なんだって、そういう自信がありありなんだ。ああいうのって、嫌味以外の何者でもないぜ」
「真壁は、そんなヤツじゃねーよ」
「かばうのか?……ふっ、面白くねえ」
 真二郎は、寂しそうに笑った。
 そして、ふと思い出したようにいった。
「俺、最近ど暇だから、邪魔してやろうか」
「えっ」
 俺はギョッとなって、真二郎を見た。
「邪魔って……」
「邪魔してやる。俺、ホントは性格悪いんだ」
「おい、ちょっと待てよ。真壁は何も知らないことなんだ」
 行きかける真二郎の腕を取って振り向かせたけど、そのまま、何もいえなくなってしまった。
 真二郎がひどく懐かしそうに、俺を見返したからだ。
「へぇー、そうなのかぁ。風間の片想いなのかぁ……。実は入試の日、ここの階段でお前を見かけたんだ。あの向陽中学のヤツらと一緒で、随分楽しそうだった。そん時にさ、俺、風間と同じクラスになれたらいいなって、思ったんだ。で、同じクラスになれて、うれしかった」
「そ、そうかな。全然そんな風には、見えなかったけど」
「もうひとつ、ホントのこと教えてやるよ。俺、いまでも好きだぜ」
 俺は絶句して、思わず真二郎から手を離した。
「お前も俺のこと、少しは気にしてくれているはずだ。だから、さっきの手紙のオトコには冷たく出来ても、俺には冷たく出来ない」
 真二郎は、挑発的だった。
 俺は何もいえずに、真二郎を睨みつけた。
 真二郎は首をすくめて小さく笑い、あっという間に俺の前から走り去った。
 俺は体中の力が抜けて、へなへなと階段の手すりに寄りかかった。
 ふぅー。
 なんて強いヤツだ。
 キッパリとしたあの強さは、あの頃と少しも変わっちゃいない。
 あの時も、そうだった。
 3年前、市の陸上競技会で、初めて真二郎を、見た時も……。
4.草原のペガサスⅠ

 俺が大崎真二郎を初めて見たのは、いまからちょうど3年前、俺がまだ中1だった時のことだった。
 陸上競技会前日のリハーサルの日、調整の終わった俺たち短距離走の選手たちは、トラックを走り込んでいる長距離選手を横目に、芝生をむしりながら、グラウンドの中央でダベっていた。
 どこの中学のナントカが強いとか、誰それが県記録を塗りかえたらしいとか、勝手なことをいい合ったりして。
 そのうちに、俺は1人のオトコに気づいた。
 そいつはトラックの端っこで、スターティングの練習をしていた。
 競技会の前日にもなって、スターティングの練習をしているというのがおかしくて、俺は皮肉めいた気持ちで、その遠くのオトコを眺めていた。
 スターティングの練習法といい、スタートダッシュのかけ方といい、短距離、それも200や400じゃなくて、ズバリ100メートルのスプリンターらしかった。
「アイツ、調子を崩すんじゃないかな。あんなにダッシュの練習ばかりして」
 あんまり何度も何度もスターティングばかりやっているので、さすがに気になって、隣りにいた城南中のヤツにいってみた。
 そいつは目を凝らしてそのオトコを見て、
「ああ、真二郎か。俺んとこの1年生だ。すんげー気が強くてさ、校内の記録会で2年生蹴散らして代表になったんだけど、その一件で大騒ぎがあったんだ。顧問のセンコーが記録会の結果にとらわれず、これまでの実績で代表を選ぶっていってさ、いったん真二郎を代表から外したんだ。1年よか2年の方が場慣れしてっから、いい記録が出せるかもしれねえって。したら真二郎のヤツ、納得できない、不合理だっていい出してさ、主将を除いた俺たち部員全員を敵に回して、やり合ったんだ」
「で、代表に押し切ったのか」
「ああ、3位以内に入ってみせるって大見得切ってさ。けど、そのことで顧問の心証悪くして、全然練習見てもらえねえの。2、3年にはボイコットされてるしよ、唯一の味方といえば主将ぐらいのもんだけど、あいにく3年生は受験準備の補習授業で部活にも出て来ねえから、うちの部の中で孤立してんだ。性格悪いぜ、アイツ」
 だから、ああやってたった1人で練習をしているらしい。
 俺はなんだか、胸が痛んだ。
 なぜかっていうと、こうして遠目に見ているだけで、真二郎ってヤツの欠点がよく分かったからだ。
 まず、スタートと同時に上体を起こしすぎている。そこで、確実にコンマ5秒くらいのロスがある。
 しかも、上体を起こしたままダッシュをかけているから、バランスが悪くて失速している。
 スタートとスタートダッシュだけで1秒近くもロスしてるなんぞ、100メートル走では致命的だった。
 顧問は何をやってんだ。
 小学生のケンカじゃあるまいし、センコーが心証悪くして生徒にコーチしないなんて、あんまりじゃないか。
 俺は思わず立ち上がって、真二郎ってヤツのところに走って行った。
「おい、お前、もっと強く地面を蹴ってみろ。そのまま前傾姿勢でスタートダッシュをするんだ。背筋がのけぞってるから、せっかく蹴ったスピードが殺されてるんだ」
 真二郎は驚いたように立ち上がって、まじまじと俺を見た。
「お前、誰だ」
「向陽中の風間、400を走ってる」
「その向陽中の風間が、なんで俺にアドバイスするんだ」
「このままじゃ……、もったいないからさ」
 さすがに、負けるからさ、とはいえなかった。
 まるで面識のない無縁な人間だけど、いま聞いたばかりの話から、真二郎の切羽詰まった立場はよく理解できた。
 明日のレースで3位以内に入らなければ、真二郎はますます立場をまずくするだろう。
 それは俺にとってはなんの関係もないはずなのに、なぜだか、ガンバって欲しいと思った。ガンバって、お前の敵の連中を見返してやれって、思っていた。
「負けると思ってんだろ?」
 真二郎は汗にまみれた顔をぬぐい、まぶしそうに俺を睨んだ。
「大丈夫、俺は勝ってみせる。必ず3位以内に入ってみせるさ」
 まるで俺に挑戦するかのように、キッパリといった。
 その時、俺はふと、勝つかもしれないと思った。
 なんの根拠もないのに、不安材料ばかりがあるのに、コイツならやるかもしれない、すべての不利な欠点を蹴散らして、勝つかもしれないと思った。
 翌日の本番、俺たち400はエントリーした選手が少なかった所為もあって、早々に決着がついた。優勝したのは、城南中学の3年生だった。市大会始まって以来の新記録をマークしての、文句なしの圧勝だった。
 そのあと俺は、男子100メートルの決勝を見届けるために、急いでゴール近くにたむろしている競技会委員の間にまぎれ込んだ。
 すぐに1発鳴って、100の男子がいっせいに走り出した。
 いまでもスローモーションのように、あの時の10秒を思い出せる。
 真二郎は俺の注意を少しも守らず、自己流の走り方を守っていた。
 そのかたくななところが、いかにも真二郎というオトコらしかった。
 ガンバレ!もっと腕を振るんだ!
 ガンバレ!体を上下させすぎだ!
 ガンバレ!それじゃ蹴りが足りないぞ!
 俺は息を止めて、真二郎を見つめていた。
 サラサラの髪が風になびき、涼しげな眼もとが苦しげにゴールの1点を見据え、ランパンからはみ出した太腿がペガサスの翼のように上下するのを、俺は不思議な感動で見つめていたんだ。
 なんてきれいなんだ。なんて毅然とした凛々しい姿なんだ。
 まるで、草原を走るペガサスのようだ。
 そうか、周り全部を敵にしてでも、真二郎はこうしてトラックを走りたかったんだ。走る自分の力を、信じていたんだ。だから、あんなに自信に満ちた走り方をしているんだ。
 勝たしてやりたい。3位以内に入って、真二郎が誇らしげに笑うのを見たい。心から拍手をしてやりたい。
 真二郎が倒れ込むようにゴールに駆け込んだのを見た時、俺は、思わず駆け寄ってよくやったな、といいそうになった。1位で入ったと思ったんだ。
 けど、すぐに我にかえった。
 真二郎だけを見ていたから、1位だと錯覚したのだ。
 実際のところ、真二郎は5位だった。
 2年や3年ばかりが大勢ひしめく中での5位入賞なら、たいしたもんだ。予選を突破するだけでも、困難なんだから。
 でも、真二郎の無念さを思うと、俺は声をかけることが出来なかった。そばへ近寄ることさえも出来なかった。
 もしかしたらレースに負けたのは真二郎じゃなくて、俺の方だったのかもしれない。
 ちなみに、1位でゴールしたのは、400の時と同じ、例の城南中学の3年生だった。この100のレースをニュー・レコードで制したことで、彼は短距離の全種目で新記録をマークしたことになる。
 皮肉にも、彼は真二郎が所属する男子陸上部の主将だった。
 しかし彼こそが、真二郎の実兄・大崎孝一郎先輩その人だったんだけど、当然ながら俺は、まだそのことを知るよしもなかった。
 さらにいえば、孝一郎先輩が俺にとって心底憧れてやまない存在に変わったのは、厳密にいうと、もう少しあとのことだった。
 この時の俺はまだ、真二郎のことで、頭がいっぱいだったんだ。

 競技会が終わって、俺は、ずいぶん遅くに控え室を出た。
 1年生の悲しさで、先輩たちにあと片付けや掃除を押しつけられたのだ。
 外は、もう暗かった。
 控え室に鍵をかけて、本部に鍵を返しに行こうとして、足が止まった。
 シャワー室の横にある更衣室の奥に、数人の男子がたむろって、何やらごちゃごちゃと騒いでいるのだ。
 制服は、城南中のものだった。
「ちぇっ、ざまあねーな。大見得切った挙げ句にこれじゃ、おい、なんとかいえよ。3位に入らなかったこの責任、どうやって取るつもりなんだ。こうなったからには潔く、退部すんだろな」
「センコーだってな、お前がいるばっかりにチームワークが乱れて困るっていってんだ。分かってんのか」
「おら、きったねーチンポ隠してるその手どけろっつーの。そんな素っ裸で土下座されたぐらいじゃ、俺たちの気持ちが収まらねーんだよ」
 耳障りな罵声が、われ先にとわめいている。
 なんと俺は、真二郎の集団リンチ場面に出くわしたのだった。
 弱い犬ほどよく吠える、群れを成せば怖いものなしとはよくいったもんだ。
 あきれてものもいえずに突っ立っていると、真二郎の、凛とした声が更衣室に響いた。
「先輩、陸上のチームワークってなんですか。陸上競技は、みんなひとりの競技じゃないんですか。チームワークなんか関係ない。そんなもん大事にして甘えてたって、いい記録なんか出せるはずがないんだ」
「この野郎っ、生意気なことぬかしゃーがって!」
 殺気だった声とともに、バシッというすさまじい音がした。
 俺は慌てて、開けっ放しになっていたドアを思いっきりノックして怒鳴った。
「いい加減にしろよっ!競技会のあとで寄ってたかって吊るし上げかっ。まだ役員のオッサン連中、上に残ってんだぞ」
 振り返った城南中のオトコどもは、『役員のオッサン連中』うんぬんという言葉がきいたのか、急に借りて来た猫みたいにおとなしくなって、
「真二郎っ、このことを主将にしゃべったらぶっ殺すからな」
 とだけいい残し、そそくさと更衣室から出て行った。
 いいのかな、と思いながら、更衣室の中へ入ってみると、真二郎が、コンクリートむき出しの床の上に、素っ裸で正座させられていた。
「おい、殴られたのか、顔……」
 ゆっくりとこっちを見た真二郎の左の頬が、赤く痛々しく腫れ上がっていた。
 真二郎は唇を噛んで、悔しそうにうつむいた。
 ふとシャワー室をのぞくと、真二郎の着替えが床に散らばり、シャツもパンツも、みんなズブ濡れになっていた。
 たぶん、アイツらがやったんだ。まったくひでぇーことしやがる。
「残念だったな……、ほら、これでも着てろ、風邪ひくぞ」
 どういったらいいのか分からなくて、とりあえず俺は自分が着ていたガクランを脱いで、真二郎の肩にかけてやった。
 その途端、何がどうなったのか、真二郎が俺に飛びついて来た。
 真二郎は素っ裸のまま俺にしがみついて、声を押し殺して静かに泣き始めたんだ。
 それは、真二郎の走り方そのもののように熱く、うちに秘めた情熱が滲み出たかのような泣き方だった。
 俺は、ガクランの上から真二郎の肩をそっと抱いた。
 ごく自然に、そうしてやった。
 力づけてやりたかった。
「陸上部、やめちゃダメだぞ。お前はきっと勝てる。勝てて当然のオトコなんだからな。やめちゃダメだ。陸上はいいぞ」
 俺は何度も何度も、そういった。やめちゃダメだぞ、陸上はいいぞ、と。
「お前の走ってる時の顔、好きだ。気が強そうで負けず嫌いで、それでいてどこか冷めていて、けど、胸の内には秘めた情熱が溢れ返っている。好きだ。そういうの。まぶしくて見つめるのが怖いくらい、カッコいいと、俺は思う。だから、やめちゃダメだ」
 真二郎は聞いているのかいないのか、ただただ、泣き続けていた。

 それっきり、俺と真二郎は会わなかった。
 会ったのは1年後、やっぱり、陸上競技会でだった。
 真二郎は2年生になり、陸上部の主力選手にのし上がっていた。
 それを知って、俺はうれしかった。
 そうだ、俺はうれしかったんだ。
 ――――お前も俺のこと、少しは気にしてくれているはずだ。だから、俺には冷たく出来ない。
 なんて勘の鋭いヤツだ。ズバリといい当ててしまった。
 その通りだ。
 俺は真二郎のことが気になってる。
 気になりすぎて、毎日が落ち着かない。
 ましてや、ああも正面切って『邪魔してやる』なんていわれると、なおさらだ。
 真二郎は、思ったことは必ずやる。やりとげる。そういうヤツだ。
 どうしたらいいんだ、くそっ。
 もしも真二郎とのことが真壁にバレたら、アイツはどんな顔をするだろう。なんだお前、そんな趣味があったのか。キショイヤツ。金輪際、お前とは絶交だ、なんていいかねない。
 もしも矢野にバレたら、アイツのことだ、両手を打って喜ぶに違いない。風間、やっぱりお前もそうだったのか!――――と。ああ、四面楚歌とは、このことか。

「何やってたんだよ、長かったな。弁当、もうあらかた食っちまったぜ」
 教室に戻ると、孝一郎先輩が笑顔で、お気楽に箸を振った。
 仕方がない、この際、先手必勝と行くか。
 真二郎の邪魔が入る前に、真壁との“友情”を、さらに強固にしておかなければ。
「おい真壁、今夜、お前ん家に行ってもいいか」
「いいよ。ちょうどよかった。俺も春彦に話したいことがあったんだ」
「なんだよ、話したいことって」
 真壁は弁当のフタを閉めてから、用心深く、俺を教室の隅に誘った。
 ほんのりと頬がピンク色に染まっている。
「春彦の隣の席のヤツ、いるだろ。ほら、もろジャニ系入った、孝一郎先輩の弟」
「ああ、真二郎のことか」
 俺の声が、喉の辺りでからまった。
 なんか、いやな予感がする。
「実をいうとさ、ぶっちゃけた話、矢野とその、趣味がおんなじなんだ、俺。その、オンナよか、オトコの方が好きっていうか」
「ちょっ、ちょっと待て真壁、俺は」
「いいから聞けって。いままでお前に黙ってたのは謝る。気持ちわりーと思うんならそれも仕方がない。中学ん時は俺も知らないフリでだまし通してたけど、俺たちはもう高校生なんだ。体の方もすっかり成長して、毎晩出すもん出さなきゃ夜だって眠れなくなっちまった。もうガマンの限界なんだ」
「真壁、お前まさか……、好きなのか」
 真壁は照れたように笑って、小さくうなづいた。
 俺は、唾を飲み込んだ。
「じゃ、矢野のいった通り、お前が昼休みに顔を出すのは、その所為だったのか」
「ああ、協力しろよ」
「…………」
 ホールド・アップというのは、こういう時にするもんじゃないかと、俺は絶望的に考えた。
 真壁健一が、あの真二郎を好きだってぇ!?
 どうやって協力すりゃいいんだよ!

5.いわゆる三角関係

 次の日から、真壁はいままで以上に頻繁に俺のクラスに来るようになった。
 それまでは昼休みに、遠慮しながら弁当箱を抱えてやって来るだけだったのに、最近じゃ2時限目の放課にもやって来て、要りもしない参考書やノートなどを借りて行く。
 そんなかったるい方法より、いっそのことさっさと映画にでも誘った方がいいんじゃないかと思うのだが、そういうわざとらしいのは好みじゃないというのだ。
「でも、春彦が隣りの席で助かったよ。お前の親友だってんで小まめに顔出ししてれば、自然と顔も名前も覚えてくれるだろ。ラッキーだったよ、ホント」
 毎日通わなくたって、とっくに顔も名前も覚えてもらってる。ついでにいうなら、真二郎はお前のことが嫌いなんだとよ。
 いっそのこと真壁にそう告げて、不埒な恋ごころに引導を渡してやりたいのはやまやまなんだが、それだけは出来ない。なぜそんなことを知っているのかと逆に追及され、俺と真二郎との関係が露見しないとも限らないのだ。
 それに正直なところ、真二郎に紹介しろなどといわれなくて、ホッとしているのだ。
 真壁はいつも、
「おう、親友が来たかって感じで、和気あいあいにしてくれてりゃいいんだ。あくまでも自然にな」
 といっているくらいだからな。
 真壁の口から『協力しろ』といわれた時はギョッとなったが、それくらいなら、いくらでも協力してやる。
 しかしなぁ……。真二郎は俺に、
「いまでも好きだぜ」
 ハッキリいったんだ。
 真二郎は嘘はいわない。
 いつだって、こっちがたじろぐほど本気だ。
 その真二郎を、俺が密かに想っていた真壁が好きだったとなると、これはいわゆる三角関係ってやつじゃないのか。
 勘弁してくれよ。
 俺は真壁とは気まずくなりたくないんだ。それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
 でも、どうすりゃいいんだ。

 そうして悩んでいるうちに、気がつくと1ヶ月が過ぎていた。
 2週間後には待望の夏休みが始まるという7月の、とても暑い日だった。
「おい、風間ちゃんよ。例の駅伝部のイケメン、またお前のこと見学に来てるな」
 放課後、陸上部の練習でグラウンドを走り込んでいると、隣りで並走していた2年生の新主将(孝一郎先輩は2週間後に行なわれる競技会を最後に、陸上部を引退することになっている。俺としてはまったく寂しい限りだが、大学受験準備とあっては致し方ない。それで、2年の中から新主将が選出されたという訳だった)が、俺にいった。
 俺は、そうとは気づかれないように注意をしながら首を回転させ、遠くのベンチに腰かけている真壁を認めた。
「アイツ、まだこっちに未練あんのかなぁ。ま、無理もないか。うちの顧問が長距離やらないもんで、仕方なく駅伝部に鞍替えしたんだもんなー。こっちで伸び伸び中距離やってる風間ちゃんのことが、恨めしくて仕方がないんじゃねーのか、アイツ」
「いやー、ひょっとしたら俺を見てるんじゃなくて、あっちの隅っこで砲丸投げやってる矢野を見学に来てるのかもしれないっすよ」
「まさか」
「じゃなきゃ、ただ単に練習に疲れてベンチで休憩してるだけかもしんないし」
 俺は、モゴモゴといい訳がましくいった。
「そうだな、そうかもしんねーな。駅伝部の練習って、けっこうキツイとこあるからなー」
 新主将はトラックを走りながら、しみじみといった。
 うーん。それにしても、真壁には困ったもんだ。
 こうちょくちょくクラブの練習を見に来られると、ハッキリいって迷惑なんだよな。
 けど、つい先日それを真壁にいったら、
「だってさ、教室にばかり顔出ししてると、いかにもC組に好きなヤツがいますと告白してるようなもんだろ。だからなるべく、外でも春彦の近くにいようかと思ってさ」
 などとのたまって、ああやって暇さえありゃ陸上部の練習を見学に来るのだ。
 何もそこまで計算する必要はないと思うのだが、
「俺がいまいちばん警戒しているのは矢野の存在さ。アイツはお前にゾッコンだからな、前から親友の俺がうとましくて仕方がないんだ。ホントは体操部に入りたかったクセに、お前の近くにいたいがために、無理して砲丸投げまでやってるくらいだからな。そんな矢野にバレてみろ、これは厄介払いをする願ってもないチャンスだとばかりに、またナンノカンノと出しゃばって来るに決まってる。お前には悪いけど、アイツの“元気がでる話”なんてのを容認する寛大な心は、俺にはないのさ。ハッキリいって矢野が出て来ると、上手くいくものも上手くいかなくなりそうなんでね」
 無口な真壁にこうキッパリと断言されては、俺はうなづく他はない。
 確かに、矢野が真壁の一件を知ったら、必ずしゃしゃり出てくるだろう。
 ホントに、何をしでかすか分かったもんじゃない。
 ……けど、真二郎は真壁が嫌いだと、ハッキリといった。
 その嫌いな真壁が、真二郎の周りをうろつき始めたら、それこそ何が起こるか、想像するだに恐ろしくなる。
「何ため息ついてんだよ」
「高校に入ってからろくなことがないから、困ってるんすよ。……ねえ先輩、そろそろ休みましょうか」
「バカ、あと1周だけ我慢しろ。風間ちゃんは持久力がいまいち弱いから、走って走って走り込むしか、記録を伸ばす道はないんだぞ」
「ふぃー、シビアっすね、先輩。……けど俺ね、正直いうと、種目転向しようかって、最近思い始めてるんすよ。中距離はもう限界かなって、自分でもうすうす実感してるし」
「それもありかなー」
 新主将は、むごいくらいあっさりと同意した。
「お前が中距離を志望した時から、変だなとは思ってたんだ。体力テストの結果では、どう見たって短距離の方が向いてそうなのに、なんでかなってな。なぁ、なんで中距離なんだ」
「そ、それは……」
 それは当然、真二郎が短距離を選ぶと思ったから――――
 けど、そんなことをいえるはずもない。
「俺ね、先輩だからいうけど、ホントは陸上ならなんでもいいと思ってたんすよ。陸上はみんな個人プレーだから、チームプレーみたいに自分のミスで他人に迷惑かけることもないし、俺の失敗は俺だけにはね返って来るから」
「自分のミスは自分の責任になるからいい、かぁ。それって暗いな。陸上やってるヤツって、なぜだか知らねーけど、みんな暗いな」
「暗いっすかね」
「暗い……。俺も含めて、な……。よし、少し休もう」
 俺はホッとして、ランニング・コースから外れた。
 顧問のセンセが遠くで手を振って、こっちに来いと合図を送ってる。
 俺と新主将はヨレヨレになりながら、一緒に走って行った。
 中距離のメンバーが全員、集まっていた。といっても、俺たちを含めて7、8人といったところだ。
 何事だろうとセンセの方を見た俺は、目を見開いた。
 その隣りに真二郎が立っていたのだ。
「みんなよーく聞けぇー。ここにいる1年の大崎は、今日からお前らと一緒に中距離を走ることになった。短距離とはトレーニング方法が微妙に異なるから、いろいろ教えてやれぇー。そうだな、おい風間、同じクラスのよしみで、お前が責任持って教えてやれ」
「はあ……」
「よかったな、練習仲間が増えて」
 何も知らない新主将が、俺の背中をポンとたたいた。
 俺はどっと疲れながら、ひとまず真二郎を部室に連れて行った。
 部屋のパイプ椅子に座って、ため息まじりに真二郎を見上げた。
「どうしたんだ。責任持って練習見てくれるんじゃなかったのか」
 真二郎は面白そうにいった。
「説明しなくても分かってるだろ、そんなもん。きのうや今日の選手じゃないんだから」
「中距離は初めてなんだ。どうやっていいのかコツがよく分からない」
「どうして転向するんだ」
「いまの新主将、城南中ん時の先輩なんだ。あの競技会のあと、俺の走りを認めてくれて、城北に来た時から中距離をやってみないかって、クドかれてたんだ」
「それだけか」
「もちろん、お前がいるからさ。いっただろ、いまでも好きだって。好きなヤツの近くにいたいってのは、自然の摂理だ。お前は、あの真壁ってヤツのそばにいたいとは思わないのか?」
 真壁か。
 そういえば入部テストの日、陸上部に長距離がないのを知った俺は、真壁にくっついて、一緒に駅伝部に鞍替えすることをマジで考えたんだっけ。
 けど、持久力にいまひとつ自信がない俺には、とても無理なジャンルの種目だし、練習の最中に真壁の姿がチラチラしてっと気が散るってんで、結局おなじ部活に所属するのは断念しちまった。
 あーあ、こんなことなら無理してでも駅伝部に入部しとくんだったな。一生補欠でもよかったんだからさ。
「そんなに露骨に嫌な顔すんなよ。傷つくだろ」
 傷ついてるわりには余裕しゃくしゃくといった感じで、真二郎はさっさとグラウンドに戻って行った。
 状況は、どんどん悪化していくみたいだった。

 練習が終わって家に帰る道すがら、どどーんと落ち込んでいる俺とは裏腹に、真壁はやけに上機嫌だった。
「これを偶然といわずしてどうする。妙な因縁だな。真二郎が中距離に転向する以前からお前の練習見学しに来てたから、これからも堂々と見学できる」
 すっかりその気になって、“真二郎”などと親しげに名前を呼び捨てにしているのを目の当たりにすると、いよいよ俺と真二郎とのカンケーのことはいえなくなったと、途方に暮れる。
 入学以来の登校拒否症候群に、ますます拍車がかかりそうで、俺は、進退極まっていた。
6.書店でデート

「そうだなあ、合理的に持久力アップをはかりたいんなら、なんといっても解説書は、郷ナカヤマの『アスレチックのすすめ』だな。オールカラーでしかも詳しい図解入りだから、これがいちばん分かりやすいんだ」
 矢野が、スポーツ解説書売り場で力説した。
 きのうの部活のあと、近ごろ持久力が伸びなくて悩んでいると、つい矢野に口を滑らせてしまったのがいけなかった。
 じゃあ、為になる本があるから、明日書店につきあってやると、矢野が俺を誘い出したのだ。
 ホントはスポーツ解説書なんてどうでもよかったんだけど、こうして書店までやって来た手前、1冊くらい買わなきゃならない。
 俺は、矢野おすすめの郷ナカヤマのアスレチックなんとかという本を買って、脇に抱えた。
 自分の意見が通ったことで、矢野はいたく満足そうにうなづき、
「で、これからどうする?」
 チラリと腕時計を見ながらいった。
 日曜日の午前中から呼び出されて、いま昼を過ぎたところだ。
「えっ、すぐに帰るんじゃないのか?」
「まさか、どうせ風間も暇なんだろ?とりあえず何か食って、そのあとで映画でもどうだ」
 矢野はうれしそうにいって、俺の肩に手をかけた。
「よせよ、お前と2人で映画なんて。カネがもったいねーだろ」
「なんだよ、それ。人が親切で書店くんだりまでつきあってやったのに、俺の要望にはつきあってくれねーってのかよ」
「だってキショイだろ、男同士でそーゆーの」
 なまじ、矢野の気持ちが俺に傾いていると悟ってるもんだから、必要以上に意識してしまう。
「3回目だぜ、お前」
 不意に、矢野がいった。
「なんだ、3回目って」
「お前が今日、俺と会ってからため息をついた回数だ」
「別に、お前の所為じゃねーんだからいいだろが」
「あったりめーだ。そんなことじゃなくてだな、俺が気になってんのは、いつまで経ってもお前が以前のお前らしくならねーってことだ。4月からこっち、元気がないのは分かってたけど、この頃は元気がないのを通り越して、ずどーんと悩んでるって感じだぜ……。それってさ、俺じゃ、全然力になれねーことなのかな」
「力になれるとかなれないとか、そういう問題じゃねーから」
「なーんか意味ありげだな。真壁のヤツは最近やたらお前と接近してるしよ。俺の睨んだところ、その裏では何か重大な事件が進行しつつあるように見えるんだが……」
「まったく大袈裟なヤツだな、重大な事件なんて」
 笑ってみたものの、いまいち力がこもらない。
(重大な事件か……。ホントに、重大事件が進行しているのかもしれねーなぁ)
 事実、真壁は真二郎が中距離に転向してからというもの、ほぼ毎日のように見学に来てるし……。
 見学してるだけで一向に真二郎に近づく気配がないのは妙だと思っていたが、驚いたことに、真壁の思惑は徐々に成功しつつあるみたいなのだ。
 2、3日前、真二郎が真壁を見て、
「アイツ、ここんとこ毎日練習見に来てんだな。もしかして、陸上部に転部でもしたいんだろーか」
 と、しきりに気にしていた。
 俺の親友ってことで真二郎に印象づけるという消極的な作戦は、意外にも的中していた訳だ。
 いやはや、お見事としかいいようがない。
 しかし、万が一にも真壁と真二郎が仲良くなって、真二郎の口からもろもろのことが真壁に分かったらと思うと、感心してばかりもいられない。
 親友の恋愛のハッテンを素直に喜べないなんて、矢野のいう通り、まさしく重大事件かもしれない。
 高校入試の頃は、よもや真壁と三角関係に陥るなどとは、夢にも思わなかった。
「とにかく、メシ食おう、メシ。なんか腹減って来たから」
 気分を切り替えるつもりで大声を出すと、矢野が人差し指を立てて、シッ!と俺に合図した。
 いやに秘密めいた顔をしてる。
「なんだよ、シッ!って」
「おい、この棚から3つ先の文庫本のとこに突っ立ってるの、アレ、真壁じゃねーのか?ちょっとこっちに来て、そっと気づかれねーように見てみろ」
「真壁だってぇ?」
 俺はひょいと首を伸ばした。
 あ、ホントだ。真壁だ。
 真っ白のTシャツにひざの抜けたブルー・ジーンズを穿いて、腕組みしながら文庫本を眺めてる。
 噂をすればなんとやら、だな。
「おい、真か……」
 呼びかけた俺は、ものすごい力で矢野に引き戻された。
「なんだよ、真壁も誘ってメシ食いに行こうぜ、メシ」
「アホ、真壁1人じゃねーだろ。よく見ろっつぅーの」
「なんだ、オンナでも連れてんのか?」
 オンナよかオトコの方が好きだといってたクセに、真壁も隅に置けないなーと、ニヤニヤしながら目を凝らした俺は、我が目を疑った。
 レジの方からカバーのついた文庫本を抱えてやって来るのは、真二郎じゃないかっ!
 なんで真二郎と真壁が一緒なんだっ!?
「妙だなあ……。あのふたりには、これといって面識はないはずなんだけどなあ……。部活だって駅伝部と陸上部じゃ、全然接点もないし……」
 矢野が不思議そうに、小首をかしげた。
「そ、そうかな。別に不思議はねーんじゃねーのかな。だって俺ら、同じ学年なんだし」
 2人に気を取られていた俺は、うわの空でいい加減に答えた。
 すると矢野が、横でパチンと指を鳴らした。
「そうか!ひらめいたぞ!なるほど、へぇー、そうだったのか」
 ひとりで納得して、ひとりでうなづいている。
「な、何がどうひらめいたってんだ」
「どうせ説明したって、風間には分かんねーことだ。けどよ、簡単にいうとだな、真壁がやたらとC組に顔を出すその理由の、見当がついたってことだ」
 俺の心中など知るはずもなく、矢野は、考え深そうな顔で2人を見つめた。
「ふ、ふーん。り、理由ねえ……」
 俺は驚きを通り越して、半分あきれていた。
 毎度のことながら矢野は、こういうことにかけちゃ勘の鋭いヤツだよ、まったく。
 俺は、顎をツンと突き出して、ひと呼吸おいてから前に進み出た。
「おい、真壁」
 矢野がビックリしたように腕を引っ張ったが、遅かった。
 真壁と真二郎は、同時に振り返った。
「あれ、春彦。それに矢野も。なんだ、意外な組み合わせだな」
「そーゆーお前こそ、いかにも珍しい組み合わせじゃないか」
「い、いや、俺たちは偶然、さっきそこのミスドで出くわしたんだよ」
 真壁が、うつむきがちにボソボソといった。
 ホントかどうか、かなり疑わしい。
「なあ真壁、お前ら2人とも、メシまだなんだろ。さっきから風間がメシメシって騒いでっから、みんなでいっしょにラーメンでも食ってかないか?」
 ごく自然に、矢野がいった。
 みんなで一緒にって、いったい何をたくらんでやがるんだ、矢野は。
 俺は焦って、2人を振り返った。
 そしたら、真壁が何かいうよりも早く、真二郎が口を開いた。
「邪魔しちゃ悪いから、俺たちは遠慮するよ。なあ、健一」
「そ、それもそうだな。日曜に2人で出歩くことなんて、めったにないんだろ、お前らだって……。まあ、仲良くやってくれよ」
 真壁は笑いながら、真二郎と2人、書店を出て行った。
 俺と矢野は、仕方なく近くのラーメン屋に入ることにした。
「へぇー、あの真壁が、ねぇ~。ふーん……」
 矢野は、いま入手したばかりの最新情報を頭の中でためすすがめつして、ゆっくり分析を繰り返しているらしい。
「でも、ホントに偶然出くわしたのかな、アイツら。案外どっかで待ち合わせでもしたんじゃ、なあ、風間」
 俺は聞こえないフリをして、運ばれて来たラーメンを勢いよくすすった。
7.草原のペガサスⅡ

「ホントに偶然だったんだ」
 真二郎は俺のタイムをノートに書き込みながら、あっさりといった。
「ホントにミスドでバッタリ出会ったのさ。もしかしたら風間も一緒じゃないかと思って、つい声をかけたんだ」
 真二郎の口ぶりは、屈託がなかった。
 たぶん、その通りなんだろう。
 今朝、真壁に訊いてみたところ、ヤツも同じようなことをいっていた。
「考えてみれば狭い街だし、繁華街に出れば誰かと会うってのも、そんなに不思議じゃないよな。けど驚いたぜ。真二郎の方から声をかけてきたんだ。ひょっとしてお前が俺のことをしゃべったのかと思って、一瞬ドキッとしたぜ」
「それで、色っぽい話の1つでもしたのか?」
「ぜーんぜん。まだそういう段階じゃないよ。第一、真二郎にそーゆー趣味があるのかどうかさえ、俺には分かっちゃいないんだから。けど、思ったよりサッパリしてて、なかなかいいヤツだったぜ。ああ、やっぱり気に入ったね。以前よか、ずっと気に入った」
 真壁はそれ以上詳しいことはいわなかったし、俺も、根掘り葉掘り訊くのは控えた。
 でも、気になる。
 真二郎は本当に、妙なことをいわなかったんだろうか。
「100メートルが10秒85、800メートルが2分10秒か。中距離より短距離に強いんだな」
 真二郎はマネージャーのような口ぶりで、事務的にいった。
「近ごろ持久力は頭打ちだけど、瞬発力にはまだ自信があるんだ。やっぱ、短距離の方が向いてるんじゃないかな」
 俺も陸上選手になりきって、真面目に答えた。
 新主将のお声がかりで、俺の適正を見直すために、各種目のレコードをとっているのだ。
「転向するなら、やっぱり短距離かな」
「俺が中距離に転向したとたん、また古巣の短距離に戻るだなんて、嫌味なヤツだな、お前」
 嫌ないい方をする。
「俺がいい出したことじゃないんだ。新主将が、そうした方がいいんじゃないかって」
「俺の場合はその反対だったな。やってみて分かったけど、やっぱり短距離より中距離の方が向いてた。2歳違いの兄弟でも、俺の兄貴とはタイプが違うらしい」
「確かにそうだな」
 スタートで出遅れているのが分かっているのに、決して諦めない。
 もうダメだ、抜かれた、抜き返せないと分かっているのに、必ずフィニッシュがあると思って、走り抜く。
 ラストスパートに、賭けるんだ。
 それが真二郎の走り方で、そのまま真二郎の生き方、みたいなところがある。
 生き方といっても、真二郎がどう生きてきたのか、本当のところ、俺にはよく分からないけど、なぜかそんな気がする。
 俺はタオルを取って、部室に向かった。
 真二郎が後ろから、追いかけて来た。
「どうしたんだ。ひと休みしたら、すぐに1500メートルもとるんだぞ」
「真二郎」
 俺は、部室のロッカーからポカリのペットボトルを取り出してひと息飲んでから、あらたまって真二郎を見た。
 そろそろ、ハッキリさせなくては。
「真壁は、いいヤツだったろう」
「えっ?」
「アイツは……、真壁のヤツは……お前のことが好きなんだそうだ」
「なんだってっ!?」
 俺は真二郎を無視して、続けた。
 こんなことをいったと知れたら、真壁に殴られるかもしれないな。
「アイツ、それらしいこといわなかったか?」
「いや、初耳だな。俺たち、あの時もお前の話ばっかりしてたから」
「アイツはいいヤツだよ」
「それ、ナゾかけのつもりなのか?“俺を諦めて、アイツとつきあえ”という」
「お前も知ってる通り、俺は真壁が好きだ。まだ2人の間には、何もないけどな」
「知ってるよ。俺も含めてお前ら2人からは、ホモだとかゲイだとか、そんな匂いはそれほど漂って来ないからな。まあ、矢野は別だけど」
「俺、いまは愛情より、友情を大切にしたいんだ。十数年来続いてきた真壁との友情を、こんなことで壊したくはない」
「ふーん、俺との友情より、真壁との友情を選ぶってのか」
「真二郎はスタートから出遅れてる。真壁にいくらラストスパートをかけてもダメだ」
「そうかな」
 真二郎は、首をかしげた。
「じゃあ、俺のこと嫌いだっていってみろよ。ホントは嫌いなんだ、迷惑だ、顔も見たくないって。そしたら俺、いますぐお前のことを諦める。周りもうろつかない。陸上もやめる。去年から兄貴と一緒に始めたスピードスケートに専念するよ。ホントだ、約束する。さあ、いってみろよ」
 まるで冗談のような口調だったが、その声は、どこまでも真剣そのものだった。
 嫌いだ、迷惑してる。そういえばいいのか?
 ホントにこれ以上、俺を困らせないというのか?
 そういえばいいんだな。
 よーし、いってやる!
 俺は口をあけた。
 5秒か、10秒か、もしかしたら1分経ったのかもしれない。
 真二郎が笑い出した。
「そらみろ、やっぱりいえないんだ。なんでいえないのか、俺は知ってる。風間が、俺に惹かれてるからさ。もしかしたら、俺が思ってる以上に好きんなってるかもしれない」
 俺は何かをいう気力も失せて、パイプ椅子に腰かけた。
 バカバカしいと笑い飛ばすことは簡単なのに、笑い声すら出てこない。
 惹かれてる、か……――――
 中2ん時の競技会で、真二郎は100メートルの選手だった。1年ぶりの再会だった。
 開会式の時、斜め前にいた真二郎が振り返って、Vサインをつくってよこした。
 俺は思わず笑った。部をやめずに陸上を続けていてくれたことが、うれしかった。
 ふたたび草原のペガサスのような真二郎の走りが見られるかと思うと、俺の胸がドキドキと高鳴った。
 今度こそ、1位で入った真二郎に、心から拍手をしてやりたかった。
 スタートダッシュをトップで駆け出した時の真二郎は、前の年よりもずっとカッコよかった。
 規則正しいリズムの呼吸が、空気を通して俺の耳にまで聞こえてきそうだった。
 ゴールは目前だった。
 なのに次の瞬間、凛とした真二郎の顔が凍りついて、地面に崩れ落ちた。
 自分の競技が終わり、テントで着替えをしながらそれを見ていた俺は、最初、何が起きたのか分からなかった。
 競技会委員たちが駆け寄って助け起こそうと手を差し出すのを、真二郎は死にもの狂いで拒否していた。
「お願いします!俺に触らないで下さい!触ったら失格になる!触らないでっ!俺に触らないで下さいっ!」
 だけど真二郎が絶叫した時には、トップは既にテープを切っていた。
 真二郎は委員にそう説得されても、地面にへばりついてなかなか立ち上がろうとしなかった。
 俺はジャージを放り出して走った。
 取り巻いている委員を掻き分け手を差し出した時、真二郎は顔を上げて、じっと俺を見た。
 悔しそうに唇を噛んで、真二郎は俺の手を取った。
 俺の手にしがみつくようにして、静かに泣いていた。
 たった1人で、何度も何度も、単調なスターティングを練習していた真二郎の悔しさを、俺は知っている。
 勝てるはずがないのに、勝てると自分を信じ込ませる切なさを、俺は誰よりも知っている。
 そしてやっぱり負けてしまって、負けた自分の歯がゆさに泣いてしまう屈辱感を、俺は知っているんだ。
 そうだ。俺自身が、そうだったんだ。
 俺はいつだって、思うように走れない悔しさに青ざめてた。
 自分がそんな無力な人間だとは思いたくなくて、勝てる勝てると心の中で繰り返しながら、ラストスパートをかけるんだ。
 だのに、1位でゴールするのは俺じゃない。
 何も、スポーツにかける青春っ!てのをやってるつもりはなかったんだけど、負けるたんびに、お前はちっぽけだ、お前は無力なんだと宣告されてるような気がして、たまらなかった。
 こんな気持ちは、親友の真壁や孝一郎先輩、矢野にだって、きっと分からないだろう。
 でも、真二郎となら、何もいわなくても分かり合える気がした。
 俺の手にしがみつきながら、声を押し殺して泣いている真二郎を見て、まるで自分のことのように胸が痛んだ。
 あの時、俺と真二郎は、世界中のどんな恋人たちよりも身近だった。
 心が触れ合うほど近くにいた。
 真二郎に惹かれている。
 そうかもしれない。
 だから入試の時、真二郎を見かけて動揺したんだ。
 俺にとって、特別の人間だから……。
「真二郎。俺はお前のことが、嫌いじゃない」
「あの時も、そういったな。医務室で」
 真二郎はからかうようにいった。
 ああ、そうだったな。
 医務室で、なぜか2、3分、俺たち2人きりになった。
 病院や車の手配に、先生たちが走り回っていたんだな。
 真二郎は目を真っ赤にして、頬は涙の所為か、ぱんぱんに腫れていた。
「風間の為にも頑張りたかったのに」
 真二郎が、ポツリといった。
「俺の為?なんでさ、ガッコ違うだろ」
 俺って、まだウブだったんだな。正直なとこ、真二郎が何をいおうとしているのか、全然分からなかったんだ。
「よくやったな。カッコよかったぜ。そういって、ほめてもらいたかったんだ」
「いまだってほめてやるよ。よく頑張ったな、また来年があるさ。お前なら出来るよ」
「そうだな。また来年があるもんな。今度こそ、絶対にテープを切ってみせる」
 俺たちは目を合わせて、弱々しく笑った。
 ふと、真二郎の笑顔が止まった。
「キス、してくんねーか。よくやったな、って」
 真二郎は消えるようなかすれ声で、そのセリフをいった。
 俺は不思議と驚かなかった。
 どうして驚かなかったんだろう。
 普段の俺からは考えられないことだった。
 だけど、その時の俺はそうするのが当然のように、思っていた。
 2度の挫折にも雄々しく耐えて、『また来年があるもんな』と笑って見せた真二郎が、愛しくてならなかった。
 俺は恐る恐る、真二郎の唇に自分の唇をくっつけた。
 男同士の初めてのキスは、いまから思うとひどく不器用なキスだった。
「好きだぜ、風間」
 唇が離れてから、真二郎が笑いながらいった。
 その途端、俺は現実に戻って、ギョッとなってしまった。
 好き?好きってなんだ?
 男がオトコを好きって、いったい……――――
 俺はすっかりパニックになって、そのクセ、日頃の性格だけはしっかり残っていて、嘘だけはいうまいと必死になって、
「俺も嫌いじゃないよ。けど……」
「けど、他に好きな子が、いるんだな」
 それまでずっと俺の手を握っていた真二郎の指先に、一瞬、すごい力が入った。
 真二郎は他人の顔になって、ついっとソッポを向いた。
「すまん。変なこといっちまった。きっといま、俺の気が昂ぶってるんだな。ホントにすまん。気にしないでくれ」
 それっきり、救護班を手伝っていた北斗中学の男子生徒が、医務室に俺たちを呼びに来るまでの間、真二郎はひと言も口をきかなかった。
「今度会っても、お互いに無視しよう。その方がいい。俺も無視する。まあ、もしも今度会うことがあればの、話だけどな」
 車のドアを閉じる間際に、真二郎はそうささやいた。
 俺がビックリして顔を上げた時には、車はもう走り出していた。
 それっきり、この4月の城北の入試の日まで、1度も会うことはなかったんだ。
「なあ風間、真壁は知っているのかな。そういった俺たちのもろもろの話」
「まさか、知るはずがないさ。あの日アイツは長距離にエントリーしてたから、ちょうどその頃は第2グラウンドでレースの真っ最中のはずだ。ついでにいうなら、矢野も砲丸投げのフィールドの選手だから、俺らがトラック走ってた時には、まだ向陽中の校庭でウォーム・アップやってたはずだし、医務室のことを知るヤツなんか1人もいな……」
 俺はそこまで考えてきて、ふと、思い当たることがあった。
 そういえば、いつぞやラブレターを届けにC組を訪ねて来た美術部のやさオトコがいたな。アイツ、確か北斗中学の陸上部出身だっていってなかったっけ……。なるほど、そうか、それで納得がいった。
 あの年、各学校持ち回りの役割分担で救護班を手伝っていた生徒たちは、まぎれもなく北斗中学の陸上部員だった。その中の1人に、あのやさオトコがいたってことは、充分に考えられる。
 たぶん、俺たちを医務室に迎えに来たあの男子生徒が、そうだったんだろう。
 ちっくしょー。ってことはつまりアイツ、医務室のドアの外で俺たちの話を立ち聞きしてやがったか、もしくはドアの隙間から中の様子をのぞいてやがったか、そのどちらかしかない。
 あんの野郎ぉー、もし今度なんかいって来たら、俺がとっちめてやる。
「驚くだろうなあ。矢野や真壁が、俺たちのこと知ったら」
「えっ」
「アイツら、風間の気持ちなんかお構いなしに、自分たちのことしか頭にないみたいだから」
「そんないい方、やめろよ。似合わないぜ。お前は気は強いけど、意地の悪い男じゃないだろ」
「バカだな、お前。そーゆーこといってっから、俺みたいな男につきまとわれるんだよ。そうやって、俺をうれしがらせることばっかりいうから、誰よりも、俺のこと分かってくれてるって、思い込ませたりするから」
 真二郎は困ったように、まぶしそうに笑った。
「俺、性格悪いんだぜ、ホントに。チームワークって苦手だし、兄貴には引け目感じてるしよ。2つ下の弟にだって、いっつもいいカッコして、ホントは俺、そんな強い男じゃないのに、強がって見せてさ。中1ん時、部で孤立してた時も、兄貴にすら相談できなかった。俺が自分から望んで単独で練習しているんだ、なんてごまかしたりしてな……。風間だけだった……。俺が心を開いて、正直に接することが出来たのは……。1年の時も、転んでネンザした2年の時も……。お前、やさしかったからな」
「やさしくなんかないよ、俺。無神経だし、不器用だし」
「やさしいって」
 真二郎はそういって、思いつめたように目を凝らした。
「なぁ風間……。ちょっと、目をつむってくれないか」
「えっ」
「約束するよ。もう、邪魔はしない。お前が嫌なら、また短距離にもどる。席替えして欲しいんなら、黒板の字が見えにくいとか適当なことセンコーにいって、席を替えてもらう。だから、ちょっと目をつむってくれないか」
 真二郎の表情は、まるで全力疾走している時のように、凛と張りつめていてカッコよかった。
 真二郎が走る時も、俺が走る時も、きっとこんな表情をしているのだろう。
 遠くを見るように目を凝らして、わずかに口を開けて、全身の筋肉が痛いほど緊張する。
 俺はゆっくりと、目をつむった。
 あの時とは違う。
 いまの俺は、真二郎が何をしようとしているのかを、知っている。
 知っていて、目をつむったんだ。
 そうせずにはいられない、何かが俺をそうさせる。
 神経が集中する。
 真二郎の気配が近くなる。
 真二郎の体温が、どんどん間近になる。
 唇に、真二郎を感じた。
 真二郎。
 俺は、真二郎を抱いた。
 真二郎も、俺を抱きしめた。
 唇をまさぐる。
 お互いの鼻息が顔に降りかかる。
 あの時よりも、真二郎を身近に感じる。
 下半身に、熱い血液の流れを感じる。
 お互いの下半身が、ゴツゴツいい始める。
 俺たちは興奮していた。
 恐る恐る、真二郎の腰に腕を回した。
 真二郎のケツをつかんで、自分に引き寄せた。
 下半身と下半身がぶつかり合い、真二郎があえいだ。
 俺は唇を重ねながら、執拗に腰を動かしていた。
 高1になったお互いのものが、下着の中で左右にあばれた。
 気持ちよくて、気持ちよすぎて、俺たちはどちらからとなく、その場に崩れ落ちそうになった。
「か、風間っ……」
 真二郎の腕が、背骨が折れるほど強く、俺を抱きしめてきた。
「好きだ……風間っ」
 真二郎。
 俺はお前に惹かれている。
 これが好きという感情なのか、別ものなのか、俺にはよく分からない。
 教えてくれないか、真二郎。
「おーい、ポカリ差し入れに来てやっ……たっ、春彦っ!!」
 突然、静寂が破られた。
 聞き慣れた声に、俺と真二郎は弾かれたように離れた。
 部室のドアを開け放して立っていたのは、真壁だった。
 いや、真壁だけじゃない。真壁の後ろには、矢野もいた。
 ボーゼンとしている真壁の肩越しに、矢野の無骨な目が射るように、1点を見つめている。
 矢野の視線をたどった俺は、自分の手が、真二郎のトレパンに差し込まれているのに気がついた。
 あわてて引っ込めた時、矢野が無言で目を伏せ、背中を見せて、静かにその場から立ち去った。
「矢野、ちょっと待てよっ!」
 追いかけようとして、真壁の腕にはばまれた。
「矢野はあとだ。その前に、俺と話をつけろっ!」
 これまで1度も聞いたことがない冷たい声が、俺の耳に突き刺さった。
8.国交断絶

 トレーニング・ウェア姿のまま、カバンと制服を両脇に抱えて、俺は真壁のあとについて行った。
 ガッコから真壁の家まで、途中、電車に乗って25分あまり。真壁はひと言も口をきかなかった。
 仕出し屋サンをやってる純日本家屋の真壁の家に着いたところで、俺は、かつて1度も通されたことのない4畳半ほどの薄汚い物置小屋に案内された。
 いかにも尋問にふさわしそうなあばら屋にゾゾケが立ったが、あとで聞いたところによると、数寄屋造りとかいう由緒正しい茶室なんだそうだ。
 俺は、誰も人が来ないのを見計らって制服に着替え、そのまま待つこと10分。
 こっそり抜け出して帰ろうかという気になった時、襖が音もなく開いて真壁が入って来た。
 Tシャツにブルー・ジーンズといった、いつもお決まりの普段着に着替えていた。
 真壁はものもいわずに俺の前に来て、静かに正座した。
 パートの女中さんが煎茶と芋ヨウカンを持って現れ、俺たちの異様な雰囲気にビックリしたのか、そそくさと引っ込んだ。
 真壁は煎茶をひと口すすってから、ジロリと俺を睨みすえた。
「春彦、俺がどんなにショックを受けているか、お前に分かるか。ハッキリいって、矢野のことも思いやれないほど混乱してるよ」
「ああ、分かる……けど」
「いいや、分からないね。気を静めるためにも抹茶でも一服たてながら話を聞こうと思ったんだが、着替えてるうちにアホらしくなってやめたよ。4つの時から足かけ12年のつきあいになるが、こんな裏切りは初めてだ。ちゃんと説明できるんだろうな。いいワケ無用の絶交ものだが、他ならぬ春彦のことだ。聞くだけ聞いてやるから、正直に話してみろ」
「いや、そう大袈裟に構えられても困るんだけど」
「うだうだいってないで、早く本題に入れっつーの」
 無口な真壁とは思えない迫力に、俺は腹をすえた。
 ああいうシーンを見られてるんだ。遠まわしにいっても、怒りの火に油を注ぐばかりでどうしようもない。ここはもう、ありのまま事実をいうしかなかった。
 3年前、競技会で初めて真二郎と出会ったこと、真二郎にアドバイスをしてやったこと、リンチに出くわして泣きつかれたこと、翌年の競技会で再会したこと、真二郎が足をネンザする事故を起こしたこと。
 けど、医務室のことだけはカットした。これ以上真壁を怒らせるのは恐い。
 それっきり1度も会わなくて、受験の日、偶然真二郎を見かけたこと、しかも同じクラスになって驚いたこと。
 何もかもしゃべって、しゃべりつかれて煎茶をゴクゴク飲んだ。
「ふーん」
 しばらくして、やっと真壁がうなった。
 とはいえ、表情は息を飲むほど険しい。
「なるほど、まるで見知らぬ他人同士ですって顔してた2人が、実は3年も前からの知り合いだったという話はよく分かった」
「そんないい方すんなよ」
「じゃ、どんないい方ならいいんだ。春彦にとってはたいしたことじゃない。単なる顔見知りだったってことかもしれないけどね。俺にはえらいショックだよ。お互いにオネショの数まで知ってると思った親友が、俺の知らないところで大崎真二郎なんてオトコと知り合ってた。それくらいはまだいいさ。俺が訊きたいのは、なんで隠してたのかってことだ」
「いや、1年に1回会っただけのオトコのことなんか、話したって仕方がないだろ」
「じゃあ、同じクラスになったあとも、どうして隠してたんだ。知り合いがいるんだ、くらいのことは、教えてくれたっていいと思うんだがな」
「それはつまりその、クラスには矢野がいたし……」
「分かるように話せよ、分かるように」
「真二郎が、今度会う時は無視してくれって、そういったからさ。無視してるオトコのこと話したって、つまらんだろ」
「いや、大いに興味があるね。今度会う時には無視してくれだって?いやに色っぽい話じゃないか」
 嫉妬に狂っている所為か、いつものらりくらりとしている真壁とも思えない鋭い突っ込みに、俺はたじろいだ。
「察するところ大崎真二郎は、春彦のことが好きってワケなんだな」
「真二郎がいったのか!」
 俺は否定するのも忘れて、思わず尋ねてしまった。
 真壁はガックリと、肩の力を抜いた。
「やっぱりそうか。この前、一緒にいる間中、真二郎が春彦のことばっかり話すから、怪しいとは思ってたさ。それに春彦の方も、俺にホモっ気があると知ってもちっとも驚かないし、これは何かあるなって、睨んでた」
「……すまん」
「お前に謝られる筋合いじゃない」
 真壁は、毅然としていった。
「俺に遠慮して隠してたんなら、その誠意は認める。遠慮するような仲じゃないはずだ、という不満は残るが、それはこの際、横に置いておく。それで、さっきのアレはなんだったんだ」
「…………」
「大崎真二郎に押し切られたっていうのか。そんなの認めないぜ。これまで3人で仲良くやってきた俺や矢野の立場はどうなるんだ。いや、矢野が許したって、俺は許さないぞ。アレは完全な裏切り行為だ」
 もっともなので、俺も弁解の余地はない。
 真壁が好きなオトコだと分かってて、やっちまったんだ。
「春彦、今日のところは帰ってくれ。話せば話すだけ、頭に血がのぼって来る。顔見てると、ぶん殴りたくなってくる」
「殴ってもいいぜ」
「アホ!お前殴ってこっちが怪我でもしたらどうするんだ。恨んでも恨みきれねーじゃねーか」
 もう話すことは何もないとばかりに、真壁は、スッと音もなく立ち上がった。
 それにつられて、俺ものそのそと立ち上がった。
 真壁のかつてない怒りの前に、完璧に打ちのめされたという感じだった。
「真壁」
 帰り際、俺は情けない声でいった。
「もう、ダメか。……俺たち」
 よもやオトコなんぞで10年以上のつきあいがダメになるなんて、信じられない。
 真壁は襖の取っ手に指をかけ、俺を振り返ってキッパリといった。
「大崎真二郎と切れろ」
「切れろったって、俺たちはそんなんじゃ……」
「俺が切れたと認めた時点で、今後の進退を決める。それまでは国交断絶もショーガナイだろ。学校でも話しかけるな。嫉妬に狂って、何を口走るか自分でも分からない」
 それだけいって、襖がピシャリと閉まった。
 俺は予選落ちした時のような惨めな思いで、家に帰った。
 帰ったものの、今度は矢野の方が心配になってきた。
 チャリンコをこいで、坂道をのぼって行った。
 呼び鈴を押すと、早すぎるくらいに足音が聞こえてきて、矢野が姿を見せた。
 顔色は青白かったが、思ったより落ち着いていた。
「これから晩メシなんだ。あんまり時間がないんだけど」
 サンダルを突っかけて出て来た矢野と肩を並べて、俺はチャリを押して歩いた。
 どこというあてもなく、なだらかな坂道を、しばらくは無言のまま歩いた。
「真壁とは、大丈夫なのか?」
「国交断絶をいい渡された」
「真二郎のこと、好きなのか?」
 矢野はボンヤリと前を見たまま、独り言のようにいった。
 俺は言葉に詰まった。
「嫌いじゃない」
「そうか」
 そして矢野は苦笑いしながら、
「驚いたな。俺だけかと思ってたけど、風間も真壁も真二郎も、みんなそうだったんだな」
「…………」
「なんか1人で悩んでて、損こいちゃったなぁー。そういうことなら、お前もうすうす勘づいてるんだろうけど、実をいうと俺、お前のことが好きだった。大好きだった。子供の時から、ずっと」
「矢野、お前……」
「相手が真二郎じゃ、到底俺には勝ち目はないな。見るからに無骨でマッチョなこの俺と、ジャニ系のイケメンとじゃ、あまりにもタイプが違いすぎる」
「…………」
「このままだと、自分がどんどん惨めになってくような気がする。俺もしばらく、国交断絶した方がよさそうだな」
「こっちに拒否権はないよ」
「じゃ、いまからだ」
 矢野はくるりと体の向きを変え、アバヨもいわずに、いま来た坂道をのぼって行った。
 俺はチャリに乗り、坂道を転がるに任せた。
 ――――このままだと、自分がどんどん惨めになってくような気がする。
 矢野の思いつめた低い声が、俺の耳に残る。
 俺は、どうしたらいいんだ。
 このままでは、真壁も矢野も失ってしまう。真二郎だって……。
 真二郎だって、いつか見失ってしまう。
 俺は、1度に3人もの大切な友人を見失いそうな気がして、めまいを覚えた。
9.堂々巡り

 翌日から、真壁は昼休みにも教室に来なくなった。
 真二郎は、クラス委員に目が悪くなったとかなんとか申し立てて、席を替えてもらった。
 だけど、いまさら席が離れたって、問題が解決するとは思えない。
 現に真壁は、俺と真二郎がまだ切れていないと判断しているらしくて、口もきいてくれない。
 何よりも意外だったのは、あれほど世話好きだったあの矢野が、本当に音信不通を決め込んでいることだった。
 教室とその周辺を取り巻く雰囲気が気詰まりで、俺は、いきおいクラブに精を出すことになった。
 終業のベルが鳴るか鳴らないかのうちにグラウンドに飛び出して、走り込むのだ。
 野球部の快音やテニスボールの弾ける音を遠くに聞きながら走っていると、その時だけ、最近のもろもろの憂さを忘れて爽快だった。
「よおっ、風間ちゃん、張り切ってんなー」
 いつものように校舎周辺のランニング・コースを走っていると、後ろから主将が追いついて来た。
「熱心なのはいいことだ」
「どうやら短距離で決まりらしいっすからね、俺」
「ああ、センセからもOKが出たらしいな。ところでちょっと訊くが、真二郎はどうして休みっ放しなんだ?」
 並んで走りながら、主将が唐突に訊いてきた。
「さあ」
 俺との約束を守って、趣味のスピードスケートに専念しているんですといっても、通じないだろうな。
 もっとも、いまとなっては席替え同様、陸上部をサボろうがサボるまいが、たいして変わらないと思うのだが。
「真二郎と風間ちゃんは、親しいんだろ?」
「クラスが同じですからね」
「それだけじゃないだろ。真二郎が中1の時、競技会のあとでイジメられてたところを助けてやったんだろ」
 思わず足がもつれそうになった。
「な、なんでそれを」
「あの時、真二郎を素っ裸にひんむいて正座させていたのは、何を隠そうこの俺だ」
 主将は大声を張り上げていい切り、ぎろりっと俺を睨んだ。
 なんだか怒っているみたいで、訳が分からん。
 これから話すことをよっく聞けぇーとばかりに、主将は大きく息を吸った。
「あの競技会のあと、真二郎はコロッと変わっちまって、男子部の連中全員に謝罪して回ってたよ」
「真二郎が謝って?」
「生意気いってスミマセンでした。部を続けさせて下さい。補欠からやり直しますってな」
 あの負けず嫌いで気の強そうな真二郎が、謝って回った。いったいどういう気持ちの変化だろう。
「その態度があんまり殊勝なんで、何かのついでに話を聞いたら、向陽中の風間ってヤツに陸上はいいから、絶対にやめちゃダメだぞ、そういわれたって。だから、部をやめさせられたくないんだって、いうんだよな。風間ってお前のことだろ、風間ちゃんよ」
「はあ、いや、はい……」
「たいしたもんだと感心したよ。真二郎ってのは気が強いのはもちろんだが、何がどうコンプレックスになってんのか、扱いにくいヤツでいまひとつつきあいにくかった。それが、お前に何をいわれたのか知らねーけど、コロッと変わって、頭下げて回ってんだからな」
 主将の口調はほめてんだか責めてんだか、判断がつきかねる。
 いわないで下さいよ、といいたかった。真二郎のことはもう、勘弁して下さいよ、と。
 しかし、運動部の主将の権威は絶大で、彼は、俺の反応など無視して続けた。
「チームプレーが嫌いで人見知りが激しくて、兄貴にひっついて陸上始めたってくらいの男だからな、真二郎は。いまのクラスでも、これといって仲のいい友達はいねーだろ」
「はい」
「だからずっと、好き勝手に走ってた。実兄の孝一郎先輩はともかくとして、アイツが他人のいうこと聞いたの、風間ちゃんが初めてだろ。分かってんのかお前、そこんとこ」
「なんでそう、スゴむんすか」
「真二郎みたいのは、俺の好みだからだよ」
 な、なんなんだ。俺にケンカ売ってんのか。
 勘弁してくれよ。
 それなら真壁に申し込んでくれ。
「俺がいくら忠告しても聞かなかったのに、競技会でたった1回会っただけのオトコに何かいわれて、ああも変わるんだからな。俺の立場がないよ、ったく」
「はあ……」
「それが今年、1年ぶりに待望の再会ってやつを果たしたら、真二郎のヤツ、競技会前の頃に戻ってやがる。人間、ああもコロコロと変わるもんじゃねえ。風間ちゃんの所為じゃねーのか?」
「えっ、いや……」
「責任とれ」
 俺はコースを外して校舎の裏手をすり抜け、グラウンドに走り込んだ。
 主将もピッタリとついて来た。
 俺は、芝生を見つけてヘタリ込むように、腰を下ろした。
「なんだ、もう続かないのか」
「先輩が心臓に悪いこというからっすよ」
「何も結婚しろといってるんじゃない。クドいて、陸上部に復帰させろといってるんだ。あとはこっちでなんとかする。俺はコロッと変わった時の真二郎の方が好きなんだ」
 変わった時、か。
 人見知りが激しくてチームプレーが嫌いで、孝一郎先輩にひっついて陸上を始めたという真二郎。いかにも真二郎らしいや。
 年に1回、2年で2回会っただけの真二郎だけど、アイツの日常が分かる気がする。
 俺はチームプレーは嫌いじゃないけど、チームメイトに迷惑をかけて足を引っ張るのが嫌で、陸上を始めた。
 多少の違いはあるにせよ、早い話が俺たちは2人とも、ちっぽけな誇りを大切にしているワガママ者なんだな。
 きっと真二郎も、それがよく分かっていたんだ。
 俺が真二郎を好きになったのは、自然なことだ。
 いままで誰かからラブレターだのなんだのをもらっても、どうもピンと来なかった。
 俺のどこがいいんだろう、俺の何を知ってるのだろうと、不思議だった。
 外見で好きになったのなら、俺よりももっとツラのいいヤツが現れたら、そっちに行くだろう。性格で好きになったのなら、俺より出来た性格のヤツは5万といる。
 そう思ったから、まるで心が動かなかった。
 だけど、真二郎が俺を好きになったのは、よく分かる。分かるから、俺も好きなんだ。
 俺は、ブルブルと頭を振った。
 ダメだ、堂々巡りだ。
「やっぱダメっすよ、先輩。俺、クドくのは苦手なんだ」
 主将は首をすくめた。
「もてるワリに不器用だからな、お前は。最近、駅伝部のイケメンは応援してくれないようだけど、ケンカでもしたのか?」
「もう、勘弁して欲しいっす」
 俺は立ち上がって、トラックのスタート・ラインに駆けて行った。
 俺は自分の気持ちも見えなくて、迷ってばかりで、堂々巡りを繰り返すしか能のないちっぽけな者だ。
 俺の中に、どうしても切れないテープが張られてるみたいだ。そのテープの向こうに、俺自身の確かなものがある。
 切りたいんだ。テープを切ることが出来たなら、何もかもがハッキリすると思うんだ。
 ごめんな、真壁、矢野、真二郎。みんな。
10.風のテイル

 夏休みが近づいていた。
 毎日がなんの進展もなく、流れていた。
 鬱陶しさもここまでくると開き直りの心境で、俺は問題解決のための働きかけをいっさい投げ出していた。
 そんなある日、体育の授業で、2ブロックに別れ、テニスの勝ち抜き戦があった。
 7ポイント先取した方が勝ちで、その勝利者に次々と挑戦者がぶつかっていくという即席のルールだった。
 俺は球技が苦手なので、はやばやと負けて、見る側に回った。
 見る見るうちに、力の有りあまっているマッチョの矢野が立て続けに数人を打ち負かし、俺たちのAブロックで、見事1位に輝いた。
 そして、次はいよいよBブロックの1位との決勝戦。
 なんと相手は――――真二郎だった。
 矢野のサーブから始まって、真二郎は敏捷に走り回って巧みにボールを返している。
 抜群のフットワークだ。
 コートの片隅を狙った矢野のバック・ストロークに真二郎が追いつき、高めに打ち上げて返す。
 矢野がすかさずスマッシュで打ち込むと真二郎がフォア・ハンドでそれを拾う。
 初球からラリーになってる。
 そして、ちょうど矢野が、真二郎のライナーを上手くボレーで返した時だった。
 バックに下がっていた真二郎が、受けようとして猛然と前にダッシュする。
 バカだな、取れっこないんだから、ここはポイントをやって、次のチャンスを待った方が……。
「あっ!」
 俺は棒立ちになった。
 真二郎の体が奇妙に右にかしいだんだ。
 俺はコートの中央に走った。
 同じだ。
 あの時と同じだ。
 ゴールを目前にした真二郎が地面に崩れ落ちる。
 俺は着替えを持ったまま、何がなんだか分からずにテントの中で立ち尽くしている。
 ラストの走者が真二郎の横を風のように走り抜けるのを待って、みんなが駆け寄る。
 競技の邪魔をしない為とはいえ、ムゴイ仕打ちだ。
 真二郎は地面に這いつくばって、最後の走者が自分を追い抜いていく足音を聞かなきゃならないんだから。
 真二郎が叫ぶ。絶叫する。俺に触らないで下さい!触ったら失格になる!
 俺は走る。
 トップから失格に転落する痛みを、自分のもののように感じながら……。
 失格になったっていいじゃないか。お前はトップでトラックを走り抜けたんだ。一生懸命走ったんだ。俺が認めてやる。
 失格になっても、それでもお前が1番だと、俺が認めてやるから――――心の中でそう叫びながら、俺は走る。
「真二郎っ!」
「大丈夫、平気だ、心配するな」
 平らなテニスコートに、真二郎の気丈な声が吸い込まれる。
「真二郎、またくじいたのか。ネンザしたんだな」
 驚くクラスの男どもを無視して、真二郎の前にしゃがみ込む。不安で青ざめてるのが自分でも分かる。
「立てるか。大丈夫か」
 差し出した手を、真二郎がゆっくりとつかんだ。
 俺は顔を上げて、矢野をさがした。
 ラケットを持って突っ立っている矢野と、目が合った。
 どうしてだろう。矢野も怯えたように、青ざめて震えている。
「矢野、手を貸せ」
 声をかけると、弾かれたようにうなづいた。
 俺と矢野とで両脇から支えるようにして、真二郎を保健室に運んだ。
 あいにく、保健室に当番のセンセがいなかった。
「俺がさがしてくる。風間、そばについててやれ」
 矢野が青ざめながらも力強くいって、保健室を飛び出して行った。
 真二郎は黙ったまま、ベッドに腰かけていた。
 俺たちの大騒ぎをからかうように、かすかに笑みを浮かべている。
「痛いか?」
「ただのネンザだよ。心配すんな、慣れてんだ」
「慣れてる?」
「ああ、スピードスケートなんかやってるとな、これと似たようなヘマ、よくやるんだよ」
「嘘だろ」
「ホントさ。今年に入ってもう3回目なんだぜ。慣れっこだよ」
 真二郎は苦笑しながら、そういった。
「真二郎……、もし俺たちが子供の頃にめぐり会ってたなら、きっと真壁以上の親友になれるよ。真二郎は特別な人間だ。たった年に1回、ほんの2、3時間しかお前を見てないのに、お前のことが俺にはよく分かる」
「真壁健一よりも?」
「そうだよ。真二郎は特別の存在だ。恋人や親友なんかとは比べものにならないほどな。……それだけじゃ、ダメか?」
「――――ダメだな」
 真二郎は残念そうに、俺を見つめた。
「親友じゃ、それ以上の関係にはなれない。俺は、親友になりたかった訳じゃないんだ」
「けど……」
「もういいよ。風間」
 真二郎はゆっくりと、首を振って笑った。
「ダメだと分かってても、ついラストスパート、かけちゃうんだよな。とことんダメだって思い知らされないと、諦められない。でも、いまのはショックだったな。親友ってのは、ちょっとショックだった。いいよ、諦めてやる」
「お前はいいヤツだな。真壁のヤツも、見る目あるよ」
 真二郎は興味なさそうに、肩をすくめた。
「あー、ごめんねー。急患だって?職員室でお茶飲んでたのよ」
 突然、えらく元気な保健室のセンセが入って来た。
 俺は真二郎の手をもう1回強く握って、放した。
 ごめんな、真二郎。ごめん。お前のいちばん聞きたい言葉をいってやれなくて、ごめん。
「風間、邪魔してやる、なんていって、悪かったな」
 保健室を出る時、真二郎がそういった。
 保健室を出て密かにため息をつき、ふと顔を上げると、なんと真壁が立っていた。
 なんでこんなところにいるんだ?まだ授業中なのに。
「真壁、お前……」
 真壁は俺の手を取って、すぐ近くの男子トイレに引っぱって行った。
「説明しろよ。大崎真二郎を抱きかかえて保健室に行くってのは、どういうことなんだ」
「どういうって、ネンザしたからだよ。お前こそ、どうしたんだ。いま授業中だろ」
「ここんとこ授業に身が入らなくてな、窓の外ながめてたらお前と大崎真二郎が密着して保健室に行くのが見えたんだ。いてもたってもいられなくて、急に気分が悪くなったことにして、ここまで追っかけて来た」
 なんとまあ、真壁にしては珍しく自分を見失ってる気がする。よっぽど真二郎が気に入ってるんだな。
「あれだけ切れろっていったのに、そんなに大崎真二郎がいいのか」
「誤解だよ。俺、まだちょっと矢野に話が……」
「逃げるな。ハッキリしろよ」
「あとで話すって。ともかく、いまも真壁のこと真二郎にアピールしといたし、前にもそれらしいこと匂わせておいたから、ここはそれに免じて、見逃してくれ」
「ちょっと待てっ!」
 真壁はサッと顔色を変えた。
「俺のことをアピールって、それらしいこと匂わせたって、それ、どういう意味だ」
「だからさ、真壁はお前が好きなんだとよって、真二郎に……」
「いっちまったのかっ!?大崎真二郎本人にっ!!」
「まずいのか」
「まずいに決まってんだろっ!あちゃー、まずいよ。どうするんだ」
 照れているにしては様子がおかしい。
「いいじゃないか。いずれそういうことはハッキリさせる訳だし」
「ハッキリも何も、俺はこれといって大崎真二郎が好きという訳じゃないんだ」
 真壁はオタオタと口ごもっている。
 俺は眉を寄せた。
 これといって好きじゃない?
「なんなんだよ、いったい。ずいぶん話が違うじゃないか。お前、真二郎が好きだって、俺にいっただろ。だから、せこせこ俺たちの教室に通ったり、陸上の練習を見学に来たりしてたんじゃないのか?」
「いや、つまりその、そういう理由をつけておけばだな、春彦と一緒にいる時間が多くなると、その……」
「何ワケの分かんねーこといってんだよ」
「いや、だからさ」
 真壁はモゴモゴいった挙げ句に、腹をくくったように早口にしゃべり出した。
「矢野の所為なんだ。ヤツがあんまり春彦にベタベタするから、頭に来てさ。昼休みに教室に行ってたのは、親友としての存在をヤツに主張するためだったんだ。けど、矢野のヤツ、春彦がずっと憧れてた孝一郎先輩まで引っぱり出してさ、あん時はすごいショックだったよ。このままじゃ親友としての俺の立場が危うくなると思って、焦ったんだ」
「それと真二郎と、どういう関係があるんだ」
「春彦の隣りの席の真二郎を好きだってことにしとけば、お前の教室にも行きやすくなるだろ。要するに誰でもよかったんだけど、ちょうどあん時、アイツが近くにいて目に入ったから……」
 俺はあっけにとられて、ポカンと口を開けた。
 なんなんだーっ!それはーっ!!
「お前、矢野に妬いてたのかっ!」
「そりゃそうだよ。俺とお前の仲は、一朝一夕のもんじゃない。そんじょそこらの友情とは比べものにならないんだ。そこに来て真二郎とのキスシーンだ。俺が好きだっていってたヤツと、ああも簡単にキスするようじゃ、コイツは将来、友情か恋愛かの選択の時、絶対に恋愛を取る。そう思うとついカーッと来て」
「…………」
「春彦、もしかして、怒ってんのか?」
 もしかしなくても怒ってるよっ!
「あっ、おい、春彦っ、ちょっと待てって!」
 真壁が呼び止めるのを振り切って、俺は男子トイレを飛び出した。
 なんてヤツだっ、まったく!
 三角関係だ、これで俺たちの友情も終わりかと、俺は死ぬほど悩んだんだぞ。
 それをなんだ、バカ野郎っ!
 くそっ、将来必ず恋愛を取ってやる。親友を捨てて、恋人を取ってやるぞ。
 真二郎に対してだって失礼じゃないか。ダシに使われたと知ったら……ま、怒らないか。
 真壁は見る目がある、いいヤツだといった時も、興味なさそうだったし。
 しかし許せない。俺をさんざん悩ませた罰だ。当分の間、口をきいてやるもんか。
 廊下をズンズン歩いて保健室の近くまで戻ると、非常口のところに矢野が立っていた。
「真壁、なんだって?まず俺と話をさせろって、すごい剣幕だったが、真二郎のことで、またなんかあったのか?」
「いや、いろいろ誤解はあったけど、なんとかカタはついたから」
 まさか矢野に嫉妬してのことだとは、本人を前にしてはとてもいえない。
「そうか、ならいいんだが……。それで、真二郎の足の具合はどうなんだ」
「ただのネンザらしいよ」
「ふぅー、よかった、たいしたことなかったんだな」
 矢野は体から力を抜いて、心底ホッとしたように吐息した。
「なあ、風間。1度訊いてみたいと思ってたんだけど、お前にとって真二郎って、どんな存在なんだ。抱き合ってキスするぐらいだから、やっぱり恋人とか、そういうんだろうな」
 矢野の口ぶりは、責めているというのじゃなく、どちらかといえばからかっているようないい方だった。
「……そんなんじゃないさ」
 俺はまるで説得力のない気の抜けた声で、ポツポツといった。
「じゃ、どういうんだ」
 矢野はいよいよ意地悪そうに、食い下がってくる。
 俺はうーんとうなったまま、なんともいえない。
 どういうんだろうな。
 嫌いじゃない、惹かれているのは確かだけど。
 それがすぐ恋愛に結びつくかというと、そうでもない。
 それを言葉で、なんていったらいいんだろう。
「説明できないな、俺の貧しい国語力では」
 すると矢野は露骨に不満そうな顔をして、俺の頭をゴツンとたたいた。
「なにすんだよ、いってーな」
「俺なあ」
 ヒトの頭の痛みなどお構いナシに、矢野があらたまった口調でいった。
「俺、さっき、思いっきり強く打ったんだ。この野郎、俺の風間とキスしやがって、バカ野郎、死んじまえーって。取れそうもないコートの隅ばかり、突いたんだ。なんか、ますます落ち込むなー」
 矢野は、本当に落ち込んでいるようだった。
 そういえば矢野にもいろんな気苦労をかけていたんだなって、あらためて思った。
 ここは1発、慰めの言葉をかけてやりたいけど、いいのが浮かばない。
 あれこれ考えたすえに、2番目にいいと思うのをいってみた。
「そんなに落ち込むなよ。お前は正直なヤツなんだから。正直な人間って、そんなに嫌いじゃないぞ」
 けど、どうも矢野にはピンと来なかったらしい。
 矢野は怪訝そうに目を見張って、
「じゃあ正直にいうけどさ、俺、実は陸上部やめて、2学期から体操部に行くことにしたんだ」
 と、つぶやいた。