夜明けのロミオ

「う、うあっ、ヤ、ヤベェ……」
 12月もまだ上旬のひっそりとした夜明け前、赤澤凜太郎は股間に広がる湿り気に気づいて、あわててベッドに飛び起きた。
 冬至をひかえた早朝の暗がりの中、灯かりを点けて確かめずとも、なぜにパンツが濡れたかくらい、容易に察しがつく。
「はぁーあ、ゆうべは2発もヌいておいたのに、まったく効果なしか。いったいどうなってしまったんだ、ぼくの体は」
 凜太郎はあきれ返って、いま起きたばかりのベッドに再び背中から倒れ込んだ。
 
 熱狂的なサッカー・ファンの両親に連れられ、凜太郎は物心ついた頃から毎週のようにスタジアムに足を運んでいた。すりこみというのか、必然というのか、そのうち凜太郎は嫌でもサッカーに興味を持つようになる。
 5歳の誕生日に父親からプレゼントされた新品のサッカー・ボール、実際に足で蹴ってみると、観るよりもプレイするほうが楽しいスポーツだとわかった。
 小学2年で地元のクラブ・チームに入団し、練習熱心な性格が功を奏したのか、中学時代には技巧派の俊足エース・ストライカーとして全国大会に出場した経験もある。
 そんな凜太郎も今年高校2年になり、身体的にもルックス的にも、目覚ましいほどに成長した。
 細身ながらもバランスのとれたボディ・ラインはすれ違う男どもの嫉妬を誘い、爽やかで甘い顔立ちは老若を問わず女たちのため息を誘った。しかし、サッカーに情熱を注ぎ過ぎたせいか色恋沙汰にはとんと疎く、ろくに彼女も持たずにこれまでを過ごして来た。
 17歳といえば、男が一生のうちで最も精力旺盛といわれる時期である。
 そんな時、起き抜けに夢精したからといって特別騒ぎ立てることでもないのだが、わずか10日の間に続けて9回もとなると、少々話は違ってくる。
 夜尿症でもあるまいに、17歳にもなる立派な男子が、何が悲しくてこう毎日母親の目を盗んで汚れたパンツを洗わなければならないのか。夢精それ自体がどんなに気持ちのいい現象でも、いい加減凜太郎が辟易してしまうのは無理のないことだった。
 この色情としかいいようのない近頃の性欲が、いったいどこから来ているのか、原因はすでにハッキリしていた。
 新聞を毎朝届けてくれる、あの配達員の青年だ。
 いうよりも早く、こうして彼を想っただけで凜太郎の若い突起はまたもリアルに再起してくる。未だ空想の産物でしかないはずの青年の裸体が、どういうわけか記憶の海馬を埋め尽くして、更なる自慰を促して来るのだ。たったいま夢精したばかりだというのに。
 男の凜太郎が同じ男の裸体を妄想して欲情するなど、本来あってはならないこと。いかがわしいことだとわかっていても、彼への想いは日を追うごとに増してゆき、夢の中まで浸食されて9回もの夢精に至らせた。
 止めようにも、自分の意思や力ではどうしようもない領域だった。
(そろそろ、時間だな)
 開き直った凜太郎は、東に向いた出窓のカーテンが淡いグレーに白み始める頃、そっとベッドを抜け出す。
 それこそ血に飢えたドラキュラが重い棺の蓋をあけて美女の背後に音もなく忍び寄るように、欲望の趣くままに出窓に近づき、カーテンを全開にして窓枠に腰かけ、息をひそめて獲物を待つのだ。
 フローリングの床板は夜明けの冷気でめっきり冷え切り、素足にひどくこたえるが、あえて暖房は点けないでおく。窓のガラスが結露してはモトも子もないのだ。
 すでに落葉し尽くした玄関脇のハナミズキは2階の窓をゆうに超え、イスラム世界のモスクにも似た先の尖った丸い蕾を天に向かって無数に突き立てている。
 近隣でも比較的高台に建つこの家の出窓は、もはや凜太郎にとってかけがえのない指定席となっていた。
 車2台がやっとすれ違えるほどの小さな路地が碁盤の目のように入り組んだこの町は、温泉地が近いせいか坂道が多い。今朝も地表で温められた白い蒸気がこんもりと道に溢れ、まるで町全体がドライアイスを焚き込めた巨大なあみだくじのようだ。
 何もかもが超低速で移ろってゆく夜明け前の世界は、モノトーンの絵葉書のよう。もしやここは3次元ではなく、窓ガラスに張り付いた2次元の世界ではなかろうかと錯覚し始める頃、決まって遠くで、かすかにペダルのきしむ音がするのだ。
 凜太郎は高鳴る胸を押さえて、目の前に伸びたあみだくじのひとつにじっと目を凝らす。
 すると朝もやの中から、自転車に乗った人影がこちらに向かって近づいて来るのが見えた。
 わりかし勾配のある坂道を、その人は軽やかな身のこなしで力強くのぼって来る。
 もう10日間も見続けてきたその人の姿を、いまさら見間違えるはずもなかった。
 彼だ。彼が来たのだ。
 凜太郎の心はにわかに色めき立った。
 興奮で鼻息が荒くなり、日々成熟している肉体の中心はドクドクと音を鳴らしていっそういきり勃った。
 だが、それと同時にいいようのない虚しさも感じていた。叶うはずのない恋に、ぶつけ所のない欲求に、なかば自暴自棄になりかけてもいた。
 こうして早起きをして彼が来るのを待ってみたとて、どうなるものでもない。
 せめてシェイクスピアが描いたバルコニーのヒロインみたいに窓越しにでも声をかけることが出来たなら、どれほど気が楽になるか。しかし、現実にはひっそりと、ただこうして人知れず見つめるしか能がないのだった。
 凜太郎は虚しかった。
 著しくテントを張ったスウェット・パンツの膨らみが、ひどく侘しく思えてならなかった。
(あぁ、やっぱりぼくはあの人が好きだ。あの人のためならなんだってやれそうな気がする。あの人が待てというなら、いつまでだって待つ自信があるのに……)
 凜太郎は高ぶる興奮を抑えきれずに、震える右手で張りつめたテントを力任せに鷲づかんだ。
 形よく端のくびれた紅い唇から、甘く切なげな吐息が細く漏れて、胸の内には灼熱の煩悩がめらめらと燃え盛った。
 新聞配達専用のチャリが要所要所に停車しながら、だんだんこちらに近づいて来る。軽やかに坂をのぼる彼の俊敏な身のこなしも、ポストに合わせて折り畳んだ新聞を放り込む手際のよさも、彼のずば抜けた運動能力の高さを証明していた。
 ちょうど東の空が明るみ始めた光に、彼の吐き出す白い息が現れては消えを繰り返している。
(あの人のそばであの人が吐き出す吐息を胸いっぱい吸い込んでみたい。ひと言声をくれたなら、すぐにでも窓から飛び降りてそこへ行くのに……)
 凜太郎の食い入るような熱視線が注がれる中、彼の乗ったチャリはいよいよ3軒向こうの家の前で停まった。
 理由のない期待が凜太郎の胸を締めつけた。
 白地に黒の3本線、上下揃いのアディダスのトレーニング・スーツは、たくましい彼の肉体にピッタリとフィットして、すこぶる見栄えがいい。
 Vの字に開けたスーツの襟ぐりからは真っ白なパーカーとTシャツが顔をのぞかせ、それが彼の爽やかさをいっそう印象づけている。
 凜太郎はそれを見ながら、ゆっくりと右手をうごめかせた。
 夢精にまみれた黒いシミが下着を越えて浮き上がり、スウェット・パンツの表面までもありありと汚した。
 新聞配達の青年はサドルに飛び乗り、今度は斜向かいの家の石段を軽快に駆け上って行った。
 大きく躍動する太腿も、頑丈そうな肩甲骨も、適度に張りつめた尻の膨らみも、まるで高難度の力技を連発するサーカス団の一員のように、均整がとれていて美しい。
 そして、体の向きを変えて石段を駆け下りる腰周りの中心には、モノのありかを特定するにふさわしい盛り上がりがハッキリと見て取れる。
 元来光沢があり、ゆとりのあるはずのトレーニング・スーツのポリエステル生地が、さながらタイトなレスリング・タイツでしっかりと股間を包み込んだかのように、鉄球状のカタマリを大きく左右に行き来させている。
 そのエロティックな光景は、敏感な凜太郎の情欲をことのほか刺激した。
 固唾を呑み、規則的に右手を震わせ、密やかな自慰に没頭するあまり、凜太郎は我を忘れ始めていた。
 いつしか出窓の枠から立ち上がり、新たな先走りが滲み始めた下着の中に手を入れて直接激しく上下していた。
 凜太郎が見守る中、青年は再びチャリに飛び乗った。
 後部車輪のカバンから最後の新聞を抜き取り、赤澤家の玄関スロープを力強く駆け上がる。
 凜太郎はガラスに吸い寄せられるようにして身を乗り出し、青年の姿を窓越しに追った。
 青年の吐くリズミカルな息づかいやランニング・シューズの足音はもとより、体から立ち昇る汗の匂いや体温までもが凜太郎の2階の窓に伝わって来る。
 凜太郎にとって、それこそが至福だった。この至福の時を味わいたいがために、毎朝早起きをして青年が来るのを待っているのだ。
 新聞配達の青年は、見るからにたくましい男だった。
 褐色に色づいた健康的な肌も、濃いめの墨でスッと刷いたような凛々しい眉も、思慮深さを感じさせる大人びた瞳も、頑丈に切り立った男性的な顎のラインも何もかもが、凜太郎にとってあこがれに成り得た。
 そして何よりも凜太郎が心奪われたのは、あるひとつの目的意識を持って鍛え上げたとしか思えない見事な肉体と、内面から滲み出る成熟した雄特有の野性味溢れるフェロモンだった。
 初めて彼を見かけたのは、ちょうど10日前、凜太郎の身に訪れた早朝の尿意がもたらした偶然の産物だった。
 夢うつつの狭間でトイレに赴き、時間をかけて用を足し、半分萎えかけた自分自身と共に自室に戻った。ふと窓下付近の物音に気づいて、カーテンをあけると彼がいた。
 彼は新聞を片手に玄関脇のポストまで近づいて来ると、あっという間に踵を返して、いま来た石畳のスロープを駆け戻って行った。そのまま門の外に出て行くのかと思ったら、ふいに、青年が地面にしゃがみ込んだ。シューズの紐が緩んだらしい。
 紐を結び直している間、凜太郎は目を皿のようにして彼を見つめ続けた。
(なんてカッコいい人がいるんだろ。あんな人がぼくの家に新聞を配達していたなんて……)
 いまがまだ夜明け前であることも忘れて、ただ一心に熱い視線を送り続けた。
 ほどなくして、青年は立ち上がった。
 乗って来たチャリのサドルにまたがり、いっきに坂道を滑り降りてゆく。
 凜太郎はあわてて何か叫んだ。
 何をどう叫んだのか、あるいは声に出さずに胸の内のみで叫んだのか、それはもう記憶にない。ただ、青年の姿が遠ざかってゆくのがたまらなく切なく、夢中で叫んでいた。
 青年のチャリが朝もやに消えて、その姿が見えなくなると、凜太郎はこの世の終わりにも似た喪失感にいたたまれない感じがした。
 仕方なくベッドに戻り、布団をかぶってふて寝しようとしても、いま目にした青年の面影が脳裏に浮かんで消えやしない。股間のモノも萎えるどころか脈々と、痛いほどに力を得て硬化を続けているではないか。
 凜太郎は果たしてそうすることが当たり前のように、自らの右手を奥へと導いた。怒張する局部をしっかりと握り締め、瞼の裏に青年の画を思い残したまま恍惚と自分を慰め始めたのである。
 行為に及んだキッカケそのものはあまりに常軌を逸していたが、勃ったがゆえに慰める行為それ自体はごく自然な成り行きだった。
 凜太郎は硬く隆起したモノをあからさまに露出させ、目に焼きついた青年の面影を頼りに自分を慰める行為に没頭した。
 凜太郎はその時の射精時の衝撃を、極度の快感や達成感と共にいまでもハッキリと覚えている。
 ただ1つ意外だったのは、完璧に果てたそのあとも、白いアディダスに身を包んだ青年の面影が凜太郎の脳裏を離れずにいたことだった。
 眠るに眠られず、次第に輝きを増してくる朝陽の帯のきらめきにあっても、その余韻は一向に消えなかった。
 その時になって凜太郎はようやく自らの内に潜む本能の存在に気がついた。
 同性へのあこがれが性欲に通じるという、それまでただの1度も認めたことのなかった未知なる欲望の存在に、初めて気づかされた瞬間だった。
 自分と同じ性に対して興奮し、ついには射精まで至ったことへの驚愕と自己嫌悪は計り知れないものだったが、それにも増して、自分好みの対象を見つけ、それをネタに人知れず自慰に没頭できる悦びに、その特異な優越感に、快楽に、若い凜太郎の性感が飲み込まれてしまうのはいとも簡単なことだった。
 それはまるで断食修行を終えた高僧が最初に口にした白粥の、そのたとえようもなく甘美な味に初めて気づかされて身を震わせるように、凜太郎もまた同性に焦がれる崇高な切なさを体感して、世界が一変してしまったのだ。
 その翌日の朝早く、凜太郎は生まれて初めて夢精を経験した。股間を流れる生温かな体液のぬめりは不快のひと言に尽きたが、例えようのない吐精感は至福以外の何物でもなく、その余韻はそのまま青年へと注がれるようになった。
 凜太郎は当然のようにベッドを抜け出し、期待に胸を膨らませながら青年を待ち構えた。
 次の日も、そのまた次の日も夢精は続き、その度ごとに凜太郎は早起きをして青年を待った。
 気持ちが急いて、あまりに早く目覚めた日には、ふいに睡魔が訪れて、ついこくりこくりとやってしまうこともあったが、不思議と坂をのぼる青年のペダルの音だけは聞き逃さなかった。
 そんな凜太郎の存在など気づきもしないで、新聞配達の青年は10日経った今朝も、ポストの前で踵を返すと、たちまちスロープを駆け戻って行ってしまう。
 凜太郎は思わず窓ぎりぎりのところまで身を乗り出して、自らの中心に加える刺激をいっそう速めていた。
 新聞配達の青年が、ふと何か忘れ物でもしたかのようにゆっくりと出窓を振り返ったのは、その時だった。
 奇跡の如く、凜太郎に目を留めるなり、スポーツ・マン然とした青年のすがすがしい顔立ちが、スッと悩ましげに曇った。
 最初は不可解そうな顔つきで2階の窓を見上げていたが、凜太郎の自慰行為そのものに、じっと目を凝らしている様子だった。
 凜太郎はもちろん焦った。
 スウェット・パンツの上からではあるが、黒くシミの浮き出た中心部をもろにつかんでしごいている。その場面をあこがれの彼に見られてしまったのだ。
 いや、そんな常識的な羞恥心よりも、自分という存在に気づいてもらえた喜びのほうがはるかに大きかった。
 この10日間、ずっと彼と関わり合いを持ちたくて仕方がなかった。ひと言でいい、挨拶だけでも構わないから言葉を交わしたい。それが叶わないなら、せめてあなたを見つめている視線に気づいて欲しい。そう願いながら待ち続けていたのだから。
 形はどうあれ、彼は一面識もない自分を振り返り、立ち止まってくれたのだ。こんなにうれしいことはない。
 けれども、凜太郎の喜びはそれだけにとどまらなかった。
 いつもならば思慮深く、大人びた印象のする彼の瞳が、獲物を狙う黒ヒョウさながら、眼光鋭く、攻撃的に凜太郎の上に注がれている。
 決して乱れることのなかった青年の白い吐息の流れが不規則に乱れ、気のせいか、頑丈な腰を包むトレーニング・スーツの前が、時折ぐっと持ち上がるようにも見えた。
 あれは彼が、凜太郎を意識し、なんらかの衝動をこらえようとしたからではないのか。
 しかし、凜太郎には確信がなかった。
 窓を開けて彼に問う勇気もなかった。
 もしもこの姿に欲情してくれたのなら、年上の男らしく、いますぐスロープを駆け抜け窓の下に舞い戻り、彼のほうから何かしらのリアクションをして欲しい。そしたらすぐにも階段を駆け降りて行って、そのたくましい体にすがりつき、股間の高まりを思う存分慰めてあげるのに。
 けれども、青年はそうはしなかった。
 無情にも凜太郎からそっと目をそらすと、何事もなかったようにサドルにまたがり、坂道を滑り降りて行った。
 いつもとなんら変わらぬ青年の行動に、凜太郎は明らかに言葉にならない敗北感を抱いていた。

 それ以来、新聞配達の青年と凜太郎が目を合わすことはなかった。意外にも、青年がただの1度も2階の出窓を見上げようとはしなかったのだ。
 凜太郎の存在に青年が気づいていないはずはなかった。カーテンを全開にした出窓のすぐそばで、凜太郎はガラス越しの自慰をあからさまに繰り返していたのだから。
 翌日も、そのまた翌日も、かたくなに無視し続ける新聞配達の青年に、凜太郎の自慰はますますエスカレートしていった。
 青年が朝もやの中から姿を見せると惜しげもなく全裸になり、先走りと夢精にまみれた砲身をこれ見よがしにしごきまくった。冷たい窓ガラスにピタリと張り付き、青年が近づくにタイミングを合わせ、真っ白な精液を窓一面に射出したことさえある。それでも青年は目を向けてくれようとはしなかった。
 あくまでも拒み続ける青年の前に、やがて凜太郎のほうが屈してしまった。ガラス越しの自慰をやめてしまったのだ。
 翌日から凜太郎は出窓に腰かけ、ひたすら本を読むようにした。作戦変更というわけだった。
 意外なことに、その日を境に青年の目はチラチラと窓辺に向けられるようになっていった。
 凜太郎の意識は好奇に満ちた青年の視線を敏感に感じ取っていたが、本を読むことだけに集中した。今度は凜太郎が青年を無視する番だとでもいうように。
 せっかく青年と関わりが持てるチャンスかもしれないのに、どうしてそんなあまのじゃく的な態度をとってしまったのか、正直なところ自分でもよくわからなかった。強いていうなら、17歳の凜太郎が知り得る限り最も効果的な恋愛の駆け引き、つまり、押してもダメなら引いてみろ的な常套手段を試みたといったところだろうか。凜太郎が心に思い描くような関係に青年となれる保証などどこにもないのに、自分勝手な思い込みを全力でぶつけて、それが完全に拒絶された時の敗北感をわずかながらも垣間見て、ただ自分自身をさらけ出すだけでは青年を相手に勝利者にはなれないと、サッカーで鍛えた直感が教えたのかもしれない。
 そんな日々が数日続き、クリスマスも2日後に近づいた夜明け前、赤澤凜太郎は青年が籍を置く新聞販売店の近隣までぶらりと散歩に出かけた。
 目的は特になかったが、青年が働く職場というものをなんとなく見てみたくなったのだ。
 いつもの着慣れたスウェットの下に、ぴっちりと股間を締めつけるビキニを穿いてはやる高まりをカムフラージュし、さらに厚手のウインド・ブレーカーを重ね着して明け方の夜道を歩いた。
 薄暗い外灯が並んだ街外れの歩道の脇に、目指す販売店はあった。
 見かけないおじさんや大学生ふうの人が数人、どう見ても高校生としか思えない少年の背中などが、開け放った店内を動いていた。
 そうこうするうち、1人の青年が店から出て来て、歩道に停めてあったチャリに飛び乗り交差点の向こう側に消えた。
 首を伸ばして店の中をのぞいたのだが、お目当ての彼の姿はどこにもなかった。
 凜太郎はどこか失恋が確定した敗北者のような心境になり、重い足取りで近所を1周して、再び販売店の歩道に戻ってみた。
 例の新聞配達の青年が、ちょうどチャリから降りたところだった。
 暗くてよくわからなかったのだが、左右どちらかの足をかばっているように思えた。
 相変わらずアディダスの白のトレーニング・スーツで、12月も下旬というのに左右の袖を肘までまくり上げていた。
 腕っぷしが太く、見るからにケンカの強そうな両腕をしていた。
 彼が店に入るなり、店主とおぼしきおじさんのダニ声が歩道に響いた。
「桜庭、今日くらい休んだらどうなんだ。練習に響いても知らんぞ!」
 どうやら彼の名前は桜庭というらしい。
 鼻にかかったかすれた笑い声が、すぐに店内から聞こえた。
「ははは、これくらい大丈夫ですよ、オヤっさん。ケガには慣れてるし、リハビリに自転車はちょうどいいんです。それに、俺のことを待っててくれる人に悪いし」
 ちょっとハスキーでセクシーな、それでいて芯の通った若々しいテノールが答えた。
 彼の声が聞けてうれしかったが、凜太郎は胸の奥に針でつついたような痛みを覚えた。
「こいつ、ノロケやがって。どこのどいつだ。堅物のお前が色気づくくらいの女だから、さぞやベッピンなんだろうな」
 青年はこれにはハッキリとは答えず、あとは軽い笑い声と照れくさそうな吐息が聞こえただけだった。
 それで充分だった。
(こんなことなら来なきゃよかった。つくづくひとりよがりな男だよ、ぼくってヤツは……)
 凜太郎は散歩に出たことを後悔しながら、急ぎ足で逃げるように自宅に舞い戻った。
 ベッドにもぐり込んでからも、しばらくは嫉妬で寝つかれなかった。
 その女の所在を突き止め、バラバラに切り刻んで遺棄してやりたいとさえ思った。でも、すぐに考え直した。発想の転換はサッカーで鍛えた凜太郎の長所だった。
 早起きはもうやめだ。たとえ夢精で着替えが必要になろうと、ペダルの音が聞こえようと、2度と出窓の外など眺めたりはしない。
 他人の獲物に横恋慕するほど、自分は卑しい人間じゃない。
 見も知らぬ女のおこぼれなど、金輪際欲しがるものか。
 新聞配達の青年桜庭はその日の朝、珍しくカーテンが締め切られた赤澤家の出窓を見て不審の念を抱くだろう。
 しかし、凜太郎の知ったことか。
 どうせ彼はその足で、待ち人のいる愛の巣へ向うに相違ないのだ。
 もしかしたらあの青年は自分に興味があるのではなどと、一縷の望みを胸に秘めていた自分がとても恥ずかしかった。
 失恋が確実となったいま、青年と未知の世界の扉を開く意義も意味もない。何もかもがどうでもよく思えて、凜太郎はいっさいの気力を失った。
 それから新しい年が明けるまでの間、赤澤家の2階の出窓のカーテンは、1度も開かれることはなかった。

 冬休みが終わって初めてクラブ活動があった日の放課後、凜太郎は部の顧問に退部届を提出した。
 顧問の先生はじっと凜太郎の顔を見つめて、しばらく黙り込んでいた。
 理由をしつこく問われるのは嫌だと思っていたが、そうして沈黙されることのほうがもっと肩身の狭いものだと実感した。
 凜太郎は歯を食いしばって顧問を睨み返し、同じようにだんまりを決め込んでいると、
「仕方がない」
 顧問の唇がため息をついて、
「あと1年で引退だから、それまで続けたらどうかとは思うが、お前なりに考えた結論なんだろう。しかし、共に国立競技場を目指した3年生に挨拶だけは、済ませてから辞めるんだぞ」
 といってくれた。
 先生の気持ちはありがたかったが、サッカー部の活動なんてもう、本当にどうでもいいと思えた。
 3年生に挨拶に行った時は、家庭の事情で練習時間が思うように取れなくなったというのをいい加減な口実にした。
 家庭の事情うんぬんというニュアンスが効いたのか、思い直すようにいう先輩は誰ひとりとしていなかった。
 もっとも尊敬し、理想の男として慕っていたキャプテンでさえ、無理に引き留めようとはしなかった。
 この高校では2年足らずと短かったけど、エース・ストライカーとしての自分の存在価値とはいったいなんだったのか。凜太郎はどこかスッキリしないまま慣れ親しんだ部室をあとにした。
 サッカー部を辞めたのは、無論、あの新聞配達の青年に失恋したからである。
 失恋と部を辞めることの間には、一見なんの因果もないように思えるが、凜太郎にしてみれば大いに関係があった。
 同じ高校のサッカー部には、凜太郎の気をひく魅力的な男たちが大勢いた。凜太郎は新聞配達の青年を見初めるよりもずっと以前から、彼らと一緒にプレー出来ることを楽しみに部活動を続けてきたといってもいい過ぎではなかった。
 だが、凜太郎にはもう、あこがれのキャプテンやハンサムな友人たちと共に走り、笑い、部室でバカ騒ぎを繰り返すだけの忍耐力がなかった。普段見慣れたむき出しの肉体や陽に焼けた彼らの素顔でさえ、自信を喪失させるもの以外の何物でもなかった。
 凜太郎がこんなにも腑抜けにさせられたのは、昨年末、新聞販売店の前で青年の話を立ち聞きしたことに尽きていた。
 青白く光る蛍光灯の明かりと共に、販売店から聞こえて来た青年の照れくさそうな笑い声が、凜太郎の心に芽生えたわずかながらの希望を根こそぎ引っこ抜いて枯らしてしまったのだ。
 新聞配達の青年と本気でどうこうなるなど、初めから諦めていた。とはいえ、現実に本人の口から想い人の存在を悟らされたのは、考えもしなかっただけにつらかった。
 青年に失恋したことで行き場を失くした情欲が、今度は手近なキャプテンや友人たちのほうへ向けられてしまいそうなのが怖かった。
 なんといっても、新聞配達の青年の前で、自慰をも顧みなかった自分のことだ。いざとなれば肉欲に負けて、チーム・メイト相手に取り返しのつかない行動に突っ走ってしまわないとも限らない。
 そんなことになる前に、いっそ部活動など辞めてしまえ。
 そう思って決断したわけだが、夕方、家に帰って窓を閉め切り、暇つぶしにふて寝していても、どういうわけかチーム・メイトの顔や姿がチラついて仕方がない。
 遠征の際、あるいは合宿の際、入浴時などに幾度となく目にしてきた彼らの裸体を陰影共々脳裏から払拭しようと何度試みても、妄想はかえってリアルになるばかり。時間と体力を持てあますだけの怠惰なひとり寝の隙を突き、カーブを描いて勃ち上がる悪魔のような砲身を、ついには震える右手で握り締め、若さのほとばしりを毎夕のように噴き上げるのが帰宅後の日課になってしまった。
 そしてその日もいつもと同様、授業を終えてふらふらと、自宅への道を無目的に歩んでいた。
 東の空には夕陽を映したグレナディン色の細い雲が、瞼の裏の血潮のように幾重にも重なって浮かんでいた。
 見ようによっては山火事に見えないこともないつまらない雲のすぐ真下で、白いユニフォームを着た学生たちがサッカーをやっていた。
 スポーツが盛んなことで有名な私立大学のグラウンドが、帰り道の途中にあるのだった。
 いまは真冬というのに、額に汗して、たった1つのボールを追いかけている。それこそ無心に、すべての情熱をスポーツという名のこの一瞬に傾けている。
 見る人の多くは、若い彼らの汗をなんと爽やかだと思うだろう。潔くて、潔癖で、男らしい若者たちだと称賛の目で見つめるだろう。
 しかし、実際は彼らも男なのだ。
 異性との情交にあこがれ、煩悩に悩み、硬い砲身をもてあます。
 豊満な乳房を思い描き、茂みの奥の亀裂を夢見て、夜ごと男根をしごきまくっているに違いないのだ。
 けれども彼らは称賛される。
 妄想の対象が女性であるという、ただそれだけのことで、胸を張って生きていけるのだ。
 凜太郎はふいに目頭が熱くなり、奥歯を食いしばっている自分に気づいた。
 確固たるプライドと気高い信念をもって同性を見つめていたはずが、いつの間にか、同性に興味をもつ自分を引け目に感じてしまっている。それが惨めでならなかった。
 たかがひとつの失恋くらいで、こんなにひ弱になってしまうのかと、あきれ返ってしまった。
 時間が経ってグレナディンが消えかけた東の空は、いくつもの墓標が立ち並ぶ雲の墓場のようで、ひどく殺伐として薄気味悪かった。
 凜太郎は小走りになって、急いでその場から離れようとした。
 その時だった。
「おい、そこの君!ちょっと待てよ!」
 突然、声をかけられた。
 背後から走って来た誰かにいきなり肩をつかまれて、ビックリして立ち止まった。
「やぁ、やっぱり君だったか。元気だったかい?」
 振り返って顔を見て、思わず腰が抜けそうになった。
 心臓が凍りつくとはこのことだとも思った。
 すぐには返す言葉も浮かばず、息もつけない感じだった。
 目の中に飛び込んで来た彼は、ブルーと白のチェックのシャツに、濃紺の革のジャケットを着て、ブルー・ジーンズを穿いていた。
 近くで見るといっそうたくましい肢体に、がっしりとした肩幅、太い首、真冬の湖のように落ち着いた瞳に凛々しい眉、褐色の肌に引き締まった顔、思ったよりもサラサラしている柔らかそうな髪の毛……。それらすべては、アディダスの白いトレーニング・スーツに包まれずとも、思わずため息が漏れてしまうほど勇壮で美しかった。
「あ、あの、ぼ、ぼく……」
 凜太郎はショックのあまり、淡水であえぐ熱帯魚みたいに、あたふたした。
 そのくせ目だけは、彼の何もかもをえぐり取ってしまいそうな貪欲さで露骨に見開かれていたに違いない。見る者が見れば、ひと目で恋をしている少年だとわかってしまうほどに。
「このところずっと部屋のカーテンを閉め切っているんだね。病気かケガで入院でもしたんじゃないかと、心配してたんだ。そうじゃないんだろ?」
 ただの1度だけ耳にしたことのあるハスキー・ボイスが、凜太郎をやさしく気遣った。
 昨年、クリスマス・イヴの前の晩に、新聞の販売店で立ち聞きをして以来、凜太郎の耳もとで何度この声が木霊しただろう。
 それは彼への愛しさを再認識させる温かな声であるのと同時に、失恋の記憶をよみがえらせる冷酷な響きでもあった。
 凜太郎は絶望に打ちひしがれ、黙ったまま、呆然と首を横に振った。
 そうじゃない、入院もケガもしていない。あなたのことが好きで好きでたまらなくて、こうして顔を見るのがつらいから逃げていただけなのだと、この場でいえるものならいってしまいたかった。
 しかし、そんなことはいえるはずもない。
 青年は、いま目の前にいる魅力的なこの青年は、グラウンドでボールを無心に追いかけている爽やかな学生たちと同じ世界に生きる人間だ。気の合った友人たちと女の肉体を話のタネにして、そのハレンチな知識や経験を平然と自慢し合えるような、大胆かつ男らしい側の人間なのだ。
 少なくとも、友人たちの分厚い胸板や下半身のたくましい盛り上がりを見て興奮するような男ではない。
 それはどうしようもない事実なのだ。
「君、顔色が悪いぞ。大丈夫か?……いや、いいんだ。元気で学校に通っているのなら、何よりだ。気が向いたら、また君の元気な姿を見せてくれよ」
「…………」
「今日はまだ練習があるから、夕刊の配達は休んだんだ。じゃ、またな」
 青年はそういうと、凜太郎の肩をポンとたたいて、体の向きを変えた。
 瞬間、触れられた肩先に電流が走って、我に返った。
 広くて大きな彼の背中は市道を横切り、向かい側のガード・レールをひと足にまたいで、大学の通用門から敷地内に消えた。
 残された凜太郎は、彼の姿が見えなくなっても、その場から離れなかった。
 青年の誠実さに満ちたぬくもりややさしさが、まだその場所に残っているようで、名残惜しくて離れられなかったのだ。
 青年は別れ際、またな、といった。
 その言葉に凜太郎は救われた気がしていた。
 涙に曇った凜太郎の瞼に、よく鍛錬された青年の肉付きのよさがクッキリと焼きついていた。
 その夜、凜太郎はなぜか本当に熱を出して寝込んだ。
 青年のたくましい太腿や、きりりと引き締まった硬い尻や、ブルー・ジーンズの中心部に認められたゲンコツ大ほどの丸い膨らみが、頭の中をぐるぐる回っていた。
 青年に触れられた肩で荒い息をしながら、凜太郎はうわ言のように同じ言葉を繰り返した。
「また元気な姿を見せてくれ、か……。元気な姿」
 皮肉か社交辞令の類いだったとしてもうれしくてうれしくて、気が高ぶって、なかなか眠りに就けないでいた。

 それから数日、タチの悪いはやり風邪にうなされて、凜太郎は結局のところ部屋に閉じこもっていた。
 高熱からくる悪寒のうえ、本格的に訪れた新年最初の冬将軍のせいで、羽毛布団と毛布を2枚ずつ着込んで汗をかかなければならなかった。
 汗ビッショリになったスウェットも、1日に2度や3度は着替えもしたが、38度越えの高熱では窓辺に近づく気にもなれず、青年との間に交わされた無言の約束はいっこうに果たされずにいた。
 ようやく熱が引いてベッドから離れる気になったのは、結局4日もあとのことだった。
 病み上がりでまだ頭がくらくらしていたが、快復したなら快復したで、にわかに青年のことが気になり出した。
 いま頃どこで、何をしている。
 やさしい彼女とふたり、部屋で休んででもいるのだろうか。
 時計を見ると、すでに午前1時をまわっていた。
 突然、頭の中で何かが音を立てて崩れた気がした。
 もののけにでも操られるようにして、凜太郎は着ていたスウェットと下着を脱ぎ捨て、代わりにピッチリした小さめのサポーターとダークな色合いのジャージを着込み、さらにその上から保温性の高い黒のウインド・ブレーカーを羽織った。
 何がどうして凜太郎を突き動かしたのか、それは運命とか、神がかりとしかいいようのない出来事だった。あるいは熱に浮かされていた間の4日分の若さのみなぎりが、突発的に頭をもたげたせいかもしれない。
 気がつくと凜太郎は、小型のLEDライトとキーを片手に自宅を飛び出していた。
 目指すは青年が通う、あの市道に面したグラウンドの大学だった。
 そこで何をするつもりもない。こんな真夜中、バイトを控えた青年に会える期待などましてやない。ただ、勇気が欲しかった。青年と初めて言葉を交わしたあの場所へ、彼の言霊がまだ生きているであろうあの場所へ、行きさえすれば、心の奥にわだかまる彼への想いを解放してやれる気がした。
 そして、凜太郎の自慰行為を窓越しに目撃しながらも、凜太郎を元気づけるため、あえてまた元気な姿を見せてくれといった青年のやさしい思いやりにこたえるためにも、あの場所に行って自分の気持ちを確かめ直す必要があった。告白するにしても、あきらめるにしても、このままではいけない。もう一歩踏み出す勇気が必要なのだと、ただ一途に感じていた。
 真夜中の町並みは人間ひとり分の影すらも入り込む余地がないかのように、ひっそりとしていた。
 道すがら、唯一すれ違った自動車も、凜太郎の存在にまったく気づかぬふうで静かに走り去った。
 巨大な竹箒を逆さに並べたような街路樹の幹、グラウンドを取り囲むように仕切られた背の高い金網、そのずっと奥に体育館、室内プールの建物も見える。
 通学する傍ら、タイプと感じた学生たちを目で追いまわすうち、自然と覚えていった敷地内のマップだ。
 周囲をあらため、凜太郎の体は黒猫のように舞い上がり、通用門の鉄柵を乗り越えて敷地内に降り立った。
 警備員の姿はどこにもない。警報らしき音もしない。
 昼間は汗まみれ、土ボコリまみれのサッカー部員やラクロス部員、陸上部員などが溢れんばかりにたむろし、脇の歩道を通るだけでもムンムンした男の熱気に当てられめまいがするというのに。
 凜太郎は、まるで自分が大学という名の惑星の支配者にでもなったかのような心境で、とりあえず室内プールへと向かった。
 凜太郎の性向が、なんらかの匂いを嗅ぎ取ったとしか思えない。
 しなやかな身の黒猫が入り込めそうな場所はないものかと、周囲を1周してみたが、ネズミ1匹通り抜ける隙もない。
 凜太郎は潔く諦めて、体育館へと向かった。
 白地に紺のユニフォームに身を包んだ器械体操の学生たちが、しばしばその付近にたむろしているのを見かけるのだ。
 この大学の体操部は全国でも屈指の実力を誇っていて、大方この体育館も体操部専用の施設に違いない。
 入口の鉄扉は、どれも固く閉ざされていた。管理と指導が行き届いた伝統校の施設にふさわしく、入口に鍵をかけ忘れるなどあり得ないことだと承知している。
 しかし万にひとつ、どこか一カ所でも施錠し忘れた場所があるかもしれない。
 凜太郎は1つ1つ丁寧に、外壁の窓を探索してまわった。
 でも、床側面にずらりと並んだ空気取りの小窓にも、トイレ付近に掲げられた明かり取りの窓にも、非常階段の先の入口にさえも、びくともしない頑丈な鉄格子が差し渡されていた。
 現実はこんなものかと気落ちして、次なる建物に向かって体育館の脇道を歩き始めた。
 目についたガラス窓に背伸びして、ふと指先に触れたサッシのレールが、わずかだが動いたような気がした。
 ハッとして振り返り、指先に力を込めた。
 窓が開いた。
 凜太郎は即座にジャンプして窓枠にしがみつき、かるわざ師も顔負けの妙技で、あっという間によじ登った。
 黒猫じみた大きな瞳を皿のようにして見開き、床の上に降り立った。
 窓を閉め、手に触れる感触はタイル張りの壁。完全には乾き切らずに、まだしっとりと湿っていた。
 窓から射し込む薄明かりに浮かんだ個室はパーテーションで仕切られ、その上部には銀色に光るシャワーの蛇口が等間隔に並んでいた。
 体育館から廊下続きでつながったシャワー室らしい。
 風邪の熱が下がったばかりだというのに、凜太郎の股間はそれだけで勢いづき、頭がくらくらするほどだった。
 たくましい男たちが裸の体を寄せ合い、無邪気にはしゃぎながら流した汗の香りを胸いっぱいに吸い込んで、凜太郎は名残惜しげにシャワー室をあとにした。
 扉のない出入口を抜けた隣のロッカー室で、ウインド・ブレーカーに忍ばせておいたLEDライトを点した。
 部屋の隅に置いてあるゴミ箱をあさると、鼻をかんだティッシュに紛れて、黒ずんで穴のあいた靴下が片方と、穿き古してゴムがのびのびになったサポーターが1枚捨てられていた。
 凜太郎は迷わずサポーターを手に取り、ライトに透かした。
 持ち主の汗をたっぷりと吸い込み、いまだぐっしょりと濡れそぼる目の粗い生地からは、若い男が放つさまざまな匂いが漂った。
 凜太郎はゆっくりと目を閉じて、手にしたサポーターを鼻先に押しつけた。
(あぁ、スケベ過ぎる。なんて濃厚な匂いだ。本当にこれがぼくとそれほど年の違わない男の匂いなのか……。そうだ。世の中に男は星の数ほどいるじゃないか。あの新聞配達の青年に恋人がいたからといって、落ち込むことはないんだ。気に入った男を別に見つければいい。それで充分じゃないか)
 凜太郎は湿ったサポーターをポケットの中に押し込むと、ライトの光をロッカーのほうに差し向けた。
 ジャージのズボンの中心は興奮と期待とでこれ以上ないほど膨れ上がり、次々に滲み出る豊富な先走りですでにシミが出来ていた。
 額の上にも汗が浮かび、心拍数はいっそう早まりつつあった。
(誰でもいい。ぼくを欲情させてくれるなら。この寂しさを、この空しさを埋めて慰めてくれるなら……)
 凜太郎はロッカーの扉を端から順に、シラミ潰しに開けていった。
 部長の指導が厳しいのか、文房具やタオル以外、目ぼしいものは何ひとつ見つからなかった。
 これが最後と、いちばん隅に置いてあるロッカーを諦め半分で開けた。
 何かある。
 恐る恐る伸ばした指先に、つるつるした布が触れた。
 物音を立てないように慎重に取り出してみると、白地に黒の3本線、凜太郎もよく知るアディダスのトレーニング・スーツらしかった。
 上着の胸にあるネーム刺繍に、ふと目が止まった。
「Y.Sakuraba……?」
 どこか聞き覚えのあるその響きは、かの新聞配達の青年と同じネームと気がついた。
 “サクラバ”とは、世の中にありそうでいてそれほど多くもない苗字だが、偶然の一致だろうかと首をかしげた。
 ロッカーに目を戻すと、トレーニング・スーツの下にナイロンと思われる布で出来た小振りの手提げ袋がある。その中に、まだ何かありそうだった。
 目の前の魚を我慢できない仔猫のように、さっそく手を伸ばして開いてみると、白地に紺のランニング・シャツ、白のタイツ、ランニングと同じデザインの短パンやソックスなどが、きちんと畳んで仕舞われていた。
 凜太郎も記憶に久しいそれら一式は、まごうことなき男子体操チームのオフィシャル・ユニフォームである。
 女子用のスクール水着に似た形状のランニング・シャツにも興味が湧いたが、まず先にタイツを選んで体に当てた。足の裏側で引っ掛けるタイプの目に馴染みのあるタイツだが、股間部分の“守り”はどうなっているのかと生地を裏返してみたところ、内側から裏地が飛び出るように、サポーターが1枚つるりと滑り出て来た。タイツの中に挟み込んで仕舞ってあったのだ。
 極薄の生地で作られたトランクス状のサポーターだが、股間の膨らみ具合や全体のくたびれ方からして、少なくとも1度か2度使用しただけの新品でないことは確かだ。
 さすが音に聞こえた体操チームのユニフォーム、ご丁寧なことに、サポーターの端にもゴールドの刺繍糸で『Y.Sakuraba』の文字が見て取れる。
(かりそめでもいい。これら一式があの人のものであったなら、ぼくは、ぼくはもう、何も思い残すことは……)
 凜太郎はサポーターの盛り上がりに頬をすり寄せて、かすかに残った汗の香を肺の中いっぱいに嗅ぎ取った。
 強豪ひしめく全国大会で、E難度のスゴ技を決めて華々しく宙を舞ったであろう体操選手の体臭をじかに感じ取った。
「そうだ。彼らスポーツ・マンの汗と体臭こそが、ぼくに生きる力を与えてくれるんじゃないか。この際、もう誰でもいい。誰でもいいから男に抱かれて、ズタズタに体を引き裂かれてみたいんだよ!!」
 頭の中で卑猥なシーンを妄想するのは、いともたやすいことだった。だてに1週間と空けずに夢精しているわけじゃない。
 こんなに小さな純白の布きれだけでも、凜太郎の若い砲身を怒張させるには充分すぎるほどだった。
 凜太郎はウインド・ブレーカーを羽織ったまま、ジャージのズボンを下着ごと膝まで下ろした。
 風邪で寝込んでいたせいで、4日も風呂に入っていない。
 鼻をつくすえた汗の匂いも、自分のものと思えばまったく苦にはならなかった。
 サッカー部で鍛えた裸体は筋肉質というよりも、どちらかといえばしなやかなスジ筋体形といえたが、下腹部にピッタリと沿う凜太郎のシンボルは、17歳の初々しさとはかけ離れたふてぶてしさで天を突いていた。
 折からの刺激で興奮を極め、ぷっくり割れた先端のひとつ目は先走った欲情のアカシをしっとりと砲身に流し始めている。
 成熟してくびれが開きかけた粘膜の傘も、緩やかに反り返る極上のカーヴも、碧くやわらかな茂みの下草に育つ白樺の幹の如く、それは瑞々しさをたたえた浮彫りの血管を伴い暗闇の中に起立している。
 凜太郎は極度に興奮した自分を見て、更なる興奮を呈した。
 膝にわだかまっているズボンと下着をその場に脱ぎ捨て、『Y.Sakuraba』のネームが光るサポーターとタイツにまず足を通した。
 そのまま腰の位置までいっきにゴムを引き上げると、顔も知らない体操選手の股間が自分のモノと重なった。
 生地を押し上げて盛り上がる中心のカーヴも、尻の谷間に食い込むような締めつけの具合も、未だ経験したことのない快感をその辺りにもたらした。
 あちらこちらを探索して歩きまわったせいか、体じゅうがひどくポカポカして熱っぽかった。
 凜太郎は風邪をぶり返すことなどお構いなしに、上半身を包む衣類のすべてをとっさに脱ぎ捨てた。
 自らの腋の匂いを鼻先に感じつつ、ランニング・シャツに腕を通すと、機能性を重視した柔らかな上質の生地が、脈打つ鼓動の胸の突起をクッキリと浮かび上がらせた。
 全身が体操選手と同化した満足感に、凜太郎は酔いしれ、打ちのめされていた。
 一刻も早くモノをしごいて、沸騰寸前の精のたぎりを搾り出してみたかった。
 凜太郎は迷わずロッカー室の床に寝ころび、タイツの中心に手のひらを置いた。
 体操部の学生たちが歓喜し、挫折し、押し黙り、汗と涙を滴らせ、時には体液のしずくさえまき散らしたかも知れないロッカー室、その床がいま直接自分の肌に触れている。
 凜太郎は暗い天井を振り仰ぎ、手のひらを置いた腰の中心をゆっくりと動かし始めた。
 サッカーで鍛えた脚力をフルにいかして、腰を上に突き上げる。
 妄想の中の体操部員たちがぐるりと周囲を取り囲み、凜太郎の恥ずかしい様子を食い入るように凝視し始める。
 凜太郎は恥ずかしさと喜びのあまり、戦慄に打ち震えた。
 規則的に突き上げる腰の動きももどかしく、
(ぼくの先走りよ、もっと濡れてこの男のタイツを淫らに穢せ)
 と奥歯を噛みしめ、きつく目を閉じて、次第に速度を増しながら同時に手のひらでさすり始める。
 4日ぶりのひとり情事に、未熟な性はたちまち噴出の危うきを見る。
 丸いタマがせり上がり、袋から下腹部へとめり込んでゆく。
(あぁ……、もうすぐだ。もうすぐで、爆発しちまう……)
 その時がいつなのか、感覚がよりリアルさを増しながら中心めがけて押し迫って来る。
 そして、あと10回も腰を突き出せば、熱く燃えたぎった白いマグマが紅い口を割って出ると悟った。
 あと10回もしごき上げれば、体操選手の聖なる布に凜太郎の聖なる液が染み込んでゆくのだ。
 凜太郎はいつにも増して頬を紅潮させ、鼻息を荒くし、憤怒の形相であえぎ声をこらえた。
 それでも絶頂の瞬間は声を上げてしまうだろう。
 背骨の真ん中を銀のクサビが突き上がるように、雄たけびを吐き出さずにはいられないだろう。
 誰かに気づかれたら不法侵入罪は免れない。こんなスリル満点の状況下で行なわれる自慰行為は、たぶんあとにも先にも、これ1度だけだ。だからこそ、めくるめく快感が性感をびんびん刺激するのだ。
「気持ちいいよ……。もう、いきそ……」
 凜太郎はうっとりと細めた視線を宙にさまよわせた。
 するとふいに、瞼の端に光が射し込んだ。
 ハッとなって、とっさに半身を起こし、そちらに目を向ける。
 ロッカー室の入口のドアから、青白い光が線状に漏れていた。
 館内に入って来た誰かが、廊下の照明を点けたのだ。
 耳を澄ますと、確かに廊下で人の気配がする。
 気配の主は、凜太郎がそこにいるのをとうに見透かしているかのように、揺るぎのない足取りでまっすぐこちらに近づいているみたいだった。
 発射寸前の砲身は透明な露に濡れていまにも力尽きようとしていたが、ほんの一時の快楽よりも永遠の身の安全を図るほうがはるかに重要なことだった。
 急いで見まわす視界の端に、一カ所だけ入口から死角になりそうな物陰がある。
 衣類をまとめた凜太郎は、脱兎のごとき素早さで巣穴に駆け込み、暗がりでひっそりと身を潜めた。
 間一髪のタイミングでドアが開いた。廊下の明かりを背に受けた黒い人影が、入口からこちらの様子をうかがっている。
 こんな時間に見まわりなんて、大学が雇っている守衛かガードマンだろうか。
 床に伸びた人影は肩を怒らせたようにして、相変わらず入口のところにじっと立ち尽くしている。
 凜太郎が気配を消してそこに潜んでいるのを知っていて、用心しているのかもしれなかった。
 そうだ。あの人影は凜太郎の気配を察知している。
 察知しているからこそ、入口に立っているのだ。
 狙った獲物は逃さない。ましてや犯罪者ならなおさらだ。そんな正義と自信に満ちた雄の貫録が、ガッシリした体の輪郭からハッキリと見て取れた。
 凜太郎の脳裏に不法侵入の文字が浮かんだのは、その時だった。背すじにスッと悪寒が走り、全身の筋肉が硬直した。
 とんでもないことになったと後悔しても、あとの祭りだ。いまはどうやってこの難局を乗り切るか、それを考えるのが先決である。
 けれども、考えようとすればするほど焦ってしまい、うまく逃れられる手だてなど思いつきそうにもない。まったく情けない話だった。
 不法侵入、ロッカーあらし、窃盗、通報、退学、少年院送り……。
 凜太郎はいうにいわれぬ単語の連鎖に恐怖を感じて、たまらず固唾を飲み込んだ。
 瞬間、わずかな物音も聞き逃さない雄の研ぎ澄まされた聴覚が、何かを感じ取った。
 黒い人影がゆっくりと動き出す。
 ひと言も声をかけることなく、ただ凜太郎のいる暗黒の死角を目指して、まっすぐこちらに近づいて来る。
 凜太郎にとって、その男の1歩1歩が、死の13階段にも匹敵する重みでのしかかって来た。
(逃げなければ……、なんとしても……)
 あの男がそばまで来たら、ダッシュでここを飛び出そう。そして一目散に廊下の向こうへ走り去るのだ。
 男は一瞬ひるむだろう。すぐに負うべきか、身の危険の有無を確かめるべきかを迷い、逡巡するはずだ。
 そこが狙い目だ。サッカーで鍛えた俊足をフルに活かして、男が入って来た道を逆走すれば、あるいはこのピンチから逃げ延びられるかもしれない。
 凜太郎はこの可能性に賭けることにした。
 物陰に息をひそめ、瞳を血走らせ、ここぞというタイミングを見計らう。
 男の影はもう数歩手前まで迫っていた。
(もう待てない。いまだ!!)
 衣類を片手に、それこそ脱兎のごとく駆け出した。
 ふいを突かれて男がよろめき、その隙にドアの隙間をすり抜けた。
 蛍光灯に照らされた細い廊下を一心不乱にダッシュする。廊下の果ては体育館に続いているはずだ。
 いくつか見える緑色の非常口のランプの脇に、明かりが一カ所だけ点いている。きっとあの男が入って来た体育館の鉄扉に違いない。
 しかし、着慣れない器械体操のユニフォームとウインド・ブレーカーが最後にはネックになった。
 逃げる足に裾がからんで、逃げ込んだ体育館のフローリングに無様にも転んでしまったのだ。
 あとを追って来た男は間髪入れず、凜太郎の下半身めがけて猛然とタックルを仕掛けた。
 もがいて逃れようとする凜太郎だが、ふたりの体格と腕力の差は歴然としていた。
 男は荒ぶる凜太郎の四股に鋭いクサビを打ち込むかの如く、全体重でのしかかり、そして押さえ込んだ。
 凜太郎は冷たい床と明かりの上に、あえなくその顔と姿をさらけ出した。
 変態男子高生、捕まる。真夜中の大学に忍び込み、男子体操部のユニフォームを着て自慰行為に耽っていた疑い……。凜太郎は翌日のニュースを思い浮かべて、絶望感に打ちひしがれた。
 転んだ拍子に床で頭を打ったのか、それとも首がねじれて呼吸困難になっていたのか、しばらくするうち少しずつ意識が遠のいてゆき、やがてすべてが暗闇の中に紛れていった……。

「おい。おい、君……。しっかりしないか」
 夢かうつつか、耳もとで人の呼ぶ声がする。
 頭が重い。
 まだ風邪は治らないのか。
「君、大丈夫か。しっかりしろ」
 片側の頬をつねられた。
 凜太郎はあまりの痛さに、薄目を開けた。
「よかった。ようやく気がついたか」
 顔の真上で、誰かがホッと吐息した。
 凜太郎は、目の前の誰かに自分の体が包まれているのを悟った。
 その感触はひどく温かでやさしいものだが、しっかりと力強く、並外れた筋肉の持ち主であることを伝えていた。
 男の分厚い手のひらが、ゆっくりと動いて凜太郎の頬を撫でさすった。
 それはお世辞にも柔らかな感触のものではなかった。
 指の節がささくれ立ち、手のひらには豆のつぶれたような亀裂がいくつもある。その亀裂が頬の表を引っ掻きながら、ざらざらと撫でこすってゆく。
 このままいつまでも身を任せていたくなるような、愛しささえ感じられるごつい手と指使いだ。
「大丈夫か。起きられるか?」
 男の声は、耳もとでささやくほどに控え目だった。
 その声が、思わずゾッとすることをいった。
「君、久しぶりだな」
 薄目を開けていた凜太郎の目が、瞬間、カッと見開かれた。
「えっ……」
 凜太郎は薄暗がりの中、じっと目を凝らしてその男を見つめた。
 起伏に富んだ、男らしい顔……。どこかで見たような……。でも、そこまでだった。
 頭の後ろが、ひどく痛かったのだ。
 なぜこんなに痛いのだろうと、ふと頭に右手をやる。ぷっくりと盛り上がった小振りのコブが出来ていた。いまにして思えば、軽い脳シントウが招いた記憶の交錯だったのだろう。
 左手には冷たい板敷きの感触があり、遠くに見えるグリーンのランプはどう見ても非常口と読める。
 天井には水銀灯らしき傘がたくさん付いていて、まるで体育館のようである。
(体育館……)
 一瞬の間を置いて、ハッとなった。すべてを思い出したのだ。
 その場にガバッと起き上がり、捕まりかけた被疑者が刑事の隙をついて逃げ出すかの如く、いきなり走り出した。
 しかし、何歩も進まぬうちに足がもつれて、再びすっ転んだ。
 目を見張る敏捷さで男がそれを受け止めた。
 よほど鍛えられた腕らしく、凜太郎を抱えてもビクともしなかった。
(おしまいだ……。もう、何もかも……)
 凜太郎は冷たいものがひと筋、頬を伝うのを感じた。
 明日は警察が自宅に来て、両親にもこのことがばれるだろう。そう思うと自分が情けなくて仕方がない。
「君、なぜ泣く」
 凜太郎を捕まえた英雄が、不思議そうにつぶやいた。
 心の底まで響くような、どこか懐かしくて気持ちのいいハスキー・ボイスだった。
 凜太郎はうつむいて、力なくそれに答えた。
「ぼくを、ぼくを警察に突き出して下さい。早く突き出して……!ここに忍び込んで、それでぼくは……。もう、覚悟は出来てます」
「赤澤」
「え……?」
「何を驚いてるんだ。だって君、赤澤だろ?」
 諭すような口調でいうその男は、ふいに凜太郎の下顎に指をかけて持ち上げると、素早く唇を重ねて来た。
 凜太郎はビックリして、クッと体を硬直させた。
 男は弾力のある温かな唇を押し当て、凜太郎の上唇を挟み込むように広げると、強引に舌先で割り入ろうとした。
 凜太郎は反射的に口を引き締め、スレスレのところでそれを拒んだ。
「俺が誰だか、わからないのか?」
 聞き覚えのある声に耳を傾けつつ、間近でじっくりと男の顔をのぞき込んだ。
「あ、あなたは……」
 数日前の夕暮れ時、グラウンドに面した市道の脇で、偶然話しかけて来たあこがれの青年。
 いま交わしたばかりのキスで濡れた自分の唇を、そっと舌で舐めている目の前のセクシーな青年は、間違いなく新聞配達の青年その人だった。
 薄暗がりでよくわからなかったが、落ち着いて眺めてみると、あれほど好きであこがれていた彼そのものなのである。
 潤んだ瞳も、太い眉も、張りつめて照り輝く素肌も弓弦の肉体も、頑丈で美しい骨格も影も、そのどれもが毎朝早起きをして見守り続けた彼にほかならなかったのだ。
「俺って、そんなに印象薄いのかな。いま頃、気づくなんてさ」
「そ、そんな、違います。だってぼく、まさかこんなところで……」
「こんなところで俺に会うとは思っていなかった……そういいたいのか?でも、それはこっちのセリフだ」
「す、すみません」
「だいたいそれ、君がいま着てるヤツ、俺の試合着なんだぜ?」
「えっ、それじゃ、やっぱりこのY.Sakurabaというのは……」
「桜庭勇作、俺のことだ」
「体操部……だったんですね。……んあぁ!ご、ごめんなさい。ぼく、大事な試合着を汚してしまって」
「安心しな。俺は君を警察に突き出したりはしない。かといって、このまま無罪放免にするほどお人好しでもない。俺のいってること、わかるよな?」
 わかるよなといわれても、正直、凜太郎にはどういう意味ととらえていいのかわからなかった。ただ、青年が凜太郎の体を抱えて隣接した器具庫に連れてゆき、床に広げたマットの上にやさしく横倒しにしたことで初めて、彼の意図するところを悟った気がした。
 半信半疑の緊張感に凜太郎の目が見開かれる中、青年は暖房のスイッチを入れると、迷うことなくトレーニング・スーツの上下とソックスを脱ぎ捨てた。そして中に着ていたパーカーも脱ぐと、自身のネームが金色に光るユニフォーム姿の凜太郎の体の上にピタリと折り重なった。
 いまや青年の体を覆うものはノー・スリーブのTシャツと腰に張り付くボクサー・パンツ1枚のみで、凜太郎はわけがわからなくなった。
「あ、あの、ぼくはどうすれば……」
「どうもしなくてもいい。黙って俺の成すがままにされていろ。お前は今夜一晩、俺の欲求を満たすための道具になるんだ。いいな」
 そういっている間にも、青年の股間のイチモツはグングン硬度を増してゆき、いったんは萎えた凜太郎のモノをまともに押し潰した。
「こ、これはいったい。だって、だってあなたにはこ……」
 恋人がいるじゃないですか、そういいかけて、途中で言葉を飲み込んだ。
 青年に心に想う彼女がいようが恋人がいようが、そんなことはいまは関係ない。あれほどあこがれた新聞配達の青年と情事が出来るのなら、願ってもないことなのだ。
「こ?なんだよ、子って。俺にはガキなんかいないぜ」
「……い、いいえ、そうじゃなくて、なんでもありません」
「なんでもないなら静かにしてろよ。妙な気を起こして大声でも張り上げようものなら許さないぜ。そこんとこ、わかってるよな」
「は、はい」
 翳りを帯びた青年の素顔が、欲望にゆがんだ。
 この青年も凜太郎と同様、いくら果てても決して満たされることのない男の情念に取り憑かれているのかもしれなかった。
 大人の、凜太郎よりもはるかに大人の温もりが、裸身にまとわりつく柔らかな布地を通じてドクドクと伝わって来る。
 緊張に震える凜太郎の汗が暖房の熱気に揮発して、青年のたくましい肉体を包み込んでゆく。
 青年の右手がぎこちなく動いて、衣類の上から自らのいきり勃ちを鷲づかんだ。
 それを重なり合った腹部の間でしごくように動かすと、火照りに火照った凜太郎の芯棒をも、手の甲で同時にこすり上げることになる。
 青年のしごきは凜太郎の高まりをまさぐるように、あるいは探るように、そうでなければ確かめるようにして執拗に繰り返された。
 青年の唇から恍惚の吐息が断続して漏れ出る。
 ともすれば目を閉じてしまいそうになる快感の中、凜太郎は意識的に瞼を開いて、熱いため息に戯れる青年の艶めかしい姿を見ていた。
 この青年のすべてはいま凜太郎のものだ。ごつごつした手のひらも、鋭く見つめる眼光も、髪も、首すじも、押し潰してくる胸板も、腹筋も、絡みつく足も、初めての期待にぬめる体液も呼吸もすべて。
 そして弾力ある唇が再び重なって来る。今度は凜太郎も拒まない。あるがままに青年のすべてを受け入れるのだ。
 鼻先でわだかまる荒い吐息も、頬に突き刺さる硬いヒゲも、若さにまかせて暴れまわる舌のぬめりも、青年が繰り出すキスのありとあらゆる感覚は、ただ凜太郎の唾液を吸い上げるためのみにあるのだった。
 時には凜太郎も気を吐いて、青年の口を吸い込んだ。
 気も遠くなりかけるほどの激しいキスは、皮を剥いだばかりの杉の木の香りで満たされていた。
 自らのネームが光るランニング・シャツの上を、青年の指先が這いまわった。
 コリッと尖った小粒の小豆が、凜太郎の両胸をなまめかしく彩った。
 青年の指はそれら2つをもてあそび、首すじから胸もとへとぬめりの舌先を滑らせた。
 風に帆を張る小船のように、凜太郎の背すじが快感にきしんだ。
 予想を超えた青年の積極さに、思わず息を飲んで全身を強張らせた。
 額の上に汗が滲み、その上をさらに悦びの涙が伝った。
 陽光輝く朝もやの中、凜太郎を支配していた爽やかな青年は、夜の闇でも支配でき得るもうひとつの顔を持っていた。
 青年の指先が器用に動いて凜太郎の白いタイツを押し下げ、股の間で止めていたランニング・シャツのマジック・テープを引きはがし、ボクサー状のサポーターもろともあっという間に素っ裸にひんむかれた。
 完熟手前の未熟な果実が、青年の前に転がり出る。
 その真上から、青年のクッキリした輪郭が降りて来る。
 兄のように、先輩のように、年上の従兄のように、青年のボクサー越しに伝わる熱気が裸の凜太郎を朦朧とさせた。
 凜太郎はこらえ切れずに、頭を振り乱して青年の肉を求めた。
 青年もまた凜太郎の両胸を荒々しい舌づかいで含み取り、その度ごとに濃厚な吐息がふたりの唇から漏れた。
 青年の欲求は胸のみに飽き足らず、ヒゲの硬さを肌に残して、いっきにヘソの谷間を下って行った。
「あっ!ま……、待って!!」
 凜太郎はあわてて動きを遮った。
「ぼく、もう4日も風呂に入ってないんです。風邪で、今日やっと熱が下がったばかりで」
「それがどうした。いまさら待てるか」
「あ、待って、待ってってば!!お、お願いだから!!」
「くどいぞ。俺がいいっていってるだろ」
「ち、違うんです。そうじゃなくて……。桜庭さんのいうとおりにします。ただ、せめてあなたにも服を脱いで欲しくて……」
「ほぅ」
 凜太郎の目の前で、青年の口もとが照れたようにゆがんだ。ともすればだらしなく見えがちなハニカミの笑みさえ、凛とした豪気が漂うとは、なんて男らしい青年なんだろうと、凜太郎は惚れ直した。
 青年の白いボクサーの股間に、雄々しい影がそびえている。
 それを食い入るように見つめている凜太郎の視線に応えるように、青年はノー・スリーブのTシャツの裾に指をかけた。
 引き締まった脇腹に張りつくTシャツをめくり、熟れきった怒張がいまにも突き破らんばかりのボクサーを厳かに脱いだ。
 現れた中央には黒く鬱蒼とした茂みがこんもりと見事な山を成し、下腹部の尾根を伝い上がって柔らかそうに渦巻きながら、分厚い胸板の頂にまで夏草の自生は続いていた。
 そして、それらを傘下に起立した雄々しいまでの大木が、凜太郎の気を嫌でも引きつけた。
 冷気にさらされし雄の秘部は、名匠孫六によって鍛えられた玉鋼の太刀の如く、熱気をはらんで陽炎を放ち、近づくものすべてを切り裂かんばかりの勢いである。
 それは朝日を浴びて新聞を配る爽やかな青年には似ても似つかぬ、残忍なばかりの凶器、ヴェールに包まれた青年の闇の素顔といえた。
「なぜ逃げなかったんだ。いまの隙に逃げれば、無茶な屈辱も受けずに済んだものを」
 青年は脱ぎ去った下着を床の上に投げ捨てて、凜太郎に向き直った。
 凜太郎は青年を見上げて、満足したように微笑んだ。
「夢、だったんです。いつかあなたと、こんなふうになれること……」
 全部いい終わらないうちに、凜太郎は青年の裸体に狂ったようにむしゃぶりついていった。
 理性も遠慮もかなぐり捨てて、青年の肉体のくぼみというくぼみ、突起という突起の光と影をすべて記憶するように舌で舐めた。
 舐められている青年は感動しながら、そのピチャピチャいう音を聞いていた。
 責める息、受ける息、そのどちらもが切羽詰った荒々しさで激しく重なり合った。
 若い肌と肌とが密着して、力の限りに緊縛し合ったそれぞれの両腕は、喜悦と情念の炎をいっきに天井まで燃え上がらせた。
 抱き合いながらマットの上を縦横無尽に転がり、夢中になってお互いの下腹をこすりつけ合った。
 密度は違えど、黒々と茂った草原の上に、お互いの甘露をしたたか垂らし合った。
 狂ったように唇を奪い、野獣の乳飲み子さながら胸板の上を這いまわった。
 途中でさすがに息苦しくなり、凜太郎は思わず口を外した。そのとたん、上にいた青年の体が急に横滑りをして視界から消えた。次の瞬間、凜太郎の口に強引に押しつけられて来た肉があったが、それがなんであるのかすぐにはわからず、戸惑いながらも受け入れた。しかし、青年の双球なのだと気づいた時には、凜太郎の砲身もまた青年の口内にずっぷりと引きずり込まれてしまっていた。
 青年の喉は生温かく、蛇の胴内のように締めつけがきつい。
 それに併せてザラついた舌が、しつこいくらい丁寧にくびればかりを舐めまわした。
 凜太郎は羞恥と驚愕のあまり反射的に腰を引き抜こうとしたが、青年の筋肉質な両腕が腰にしっかり食い込んで、とてもじゃないが逃れられそうにない。
 4日間も風呂に入らずほったらかしの包皮の汚れは、青年の舌遣いによってきれいサッパリぬぐい取られ、その上、尿道口の内部までも尖らせた先端でこじ入って来る始末だ。
(嘘だ……。こんなことがあっていいはずがない。だってこの人には恋人がいるのに……)
 凜太郎は半ば呆然となって、ひと時思考が凝り固まった。
 しかし、青年はそんな凜太郎の動揺などどこ吹く風で、自分が永年探し求めていたものはこの男根なのだといわんばかりに激しく吸い、睾丸を揉みしだいていた。
 その次の瞬間、
「うっ、うっぐ……」
 ついに青年のいきり勃った凶器が凜太郎の唇に押しつけられ、口内深く割り込もうとして来た。
 凜太郎は下顎が外れる恐怖におののきつつも、むりやり押し入って来る肉根を受け入れた。
 涙目になり、息苦しさにあえぎ、口内を埋め尽くしてゆく感動に顔を真っ赤に火照らせて、ほとんど狂喜の沙汰でマットの上をのたうちまわった。
 あれほどあこがれた青年の肉茎が、いま口の中にある。その太さも、その長さも、表面に浮き出た血管の盛り上がりや硬さでさえも、これまでに味わったことのない天上の蜜を感じさせた。
 その間も青年は休むことなく凜太郎を責め、舌遣いは益々激しさを増していた。
 時には1本の指先を凜太郎の固い蕾に押し当てて、あわよくば内部の感触を楽しもうとさえしていた。
 凜太郎はその度ごとに興奮と戸惑いとに翻弄され、そのせいで若さに満ちた男の体液が体の奥底からググッとせり上がる気配を悟らなければならなかった。
 だが、凜太郎も負けてはいなかった。戦いの果てに青年が溢れさせるであろう純白の美酒を、必ずや我がものとするために必死で舌をうごめかせた。
 口内を寸分の余地なく埋め尽くす肉の熱気にむせ返りながら、唇を出来る限りすぼめて、彼の尿道に流れ出た肉汁を搾り出すようにして首を動かした。
 青年の味がしていた。
 塩っぱくて、甘酸っぱくて、粘り気もあって、スポーツ後の爽やかな汗を濃縮してトロみをつけたような、肉の味がしていた。
 その味はそっくりそのまま、凜太郎の肉の味として、青年も味わっているのだろう。
 青年の液と凜太郎の液とが、お互いの胃腸でこねくり回され、やがて紅くむくれた粘膜の先から真っ白な溶岩と化して噴出するのだ。
 青年の舌技はもはや最高潮に達していた。
 凜太郎の踏ん張りも、もう限界を越えていた。
 青年の腰を抱える腕に思い切りの力を込めて、鼻息を荒げながら自らの腰を浮かし激しくゆすった。
「うぅっ、うぐぅっ!うんぐぅっ!!」
 これ以上はもう、耐えられそうになかった。
 ひと際膨張した凜太郎の臨界を敏感に察知した青年が、とどめとばかりに容赦のない首のピストン運動を開始した。
 若い凜太郎はもうひとたまりもなかった。
「うあぁっ!!そ、そんな!!い、いきます!!あっ、あぁっ、い、イクぅ――っ!!」
 感極まって叫んだ瞬間、凜太郎のペニスが激震した。
「ああぁっ!!うあぁっ!うあぁぁっ!!」
 ナイフで動脈を掻っ切ったような若さの沸騰を、青年はその喉奥でありありと受け止めていた。
 全身を貫く閃光、言葉にならない快楽が青年の体内に飲み込まれる。
「うあぁっ!!ああぁっ!!あぁっ、こんな!ぼくだけなんて嫌だ!あなたも、あなたも早く、早く!!」
 体じゅうをビクビク痙攣させながら、凜太郎は苦しまぎれに青年の肉を含み直した。
 と同時に、青年がゴクリと喉を響かせて、
「いわれなくても、すぐイクぜ。ちょっと苦しいかもしれないけど、辛抱しろよ」
 いよいよの本気を出して、動き出した。
 余韻を引きずる凜太郎は、なおもだらだらと白濁を流し続けたが、青年の舌がすかさずそれらを絡め取っていった。
「お前の、めちゃめちゃ濃いな。たった4日で、こんな粘りかよ」
 皮肉まじりにいいながら、青年が照れくさそうに笑った。
 その唇の端から凜太郎の精液がひと筋、白いよだれのようにこぼれ出た。
 それを合図に、青年は凜太郎をマットに座らせると、自分は立ち上がり、腰をかがめ、猛然と出し入れを再開した。
 凜太郎にしてみれば、ともすれば屈辱的なプレーといえないこともなかったが、青年を好きだという純粋な気持ちと、脳天にズシズシ響く烈しい振動が、自分が誰なのかさえも忘れさせてくれた。
(あぁ、すごい、すごいよ。気が遠くなりそう……)
 極太の出し入れが続く中、凜太郎の意識は徐々に闇の彼方に飛んでいった。
 摩擦の熱で唇がただれ、青年の肉茎と共に焼け落ちてゆくようだった。
 あこがれた男の性の営み、まさに野獣むき出しの激しい腰つきに完全にやられて、凜太郎の体はデクの坊みたいに大きく揺らいだ。
 それが2分ほど続いたのち、
「イクぞ、いいか」
 青年の唇が切なげにゆがみ、野太い男根が一段と深い場所に突き刺さった。
 荒い呼吸が続く中、鼻にかかった甘いうめきが徐々に漏れるようになり、
「もうイク、うっ、うぅっ、イク……、イクぅ……、うぅっく!!!」
 と全身の筋肉をこわばらせた瞬間、凜太郎の喉もと深くで豪快な白濁が砕け散った。
「うっ!!うぅっ!!く、くっ!!ヤ、ヤベェ!!ヤバ過ぎだぜ……」
 爽やかな青年の印象はもはや完全に影をひそめ、代わりに驚くほどなまめかしい顔つきでガクガクとその身を震わせる。
 きつく眼を閉じ、奥歯を食いしばり、怒涛の放出を繰り返す眼上の青年に、凜太郎は喜悦のあまり目に涙が滲むのをこらえることが出来なかった。
 次第に口内に満たされてゆくザーメン、生まれて初めて口にしたその味があこがれの青年の粘り気であることに、凜太郎は心の底から感動していたのだ。
 やがて、最後の1滴を搾り出し終えたあと、
「おい、赤澤?」
 青年は未だ極太に勃ち残る凶器を、凜太郎の口から引き抜いた。
 てらてらとぬめりながら姿を見せた包皮の表面から、真っ白い湯気が立ち昇っている。それは口内に溜め込んだ青年のザーメンと凜太郎の唾液とが融合した名残りだ。
「なんだ、どうした。お前、泣いてるのか?そりゃ、俺のはけっこう太いらしいから、無理もないけど……」
 青年は生まれたままの姿の凜太郎を軽々と抱き上げると、いったん器具庫を出て、男子トイレとボイラー室の間に挟まれた小振りのシャワー・ルームへと運んだ。ロッカー室の隣にあったそれとはまた別の施設だった。
「さぁ、いまお湯を出してやるから、早く口をゆすぐんだ。生臭い精液がネバついて、気持ち悪いんだろ?俺に遠慮せずに、さぁ、早く」
 タイル張りの床に下ろすなり、青年はそういって促したが、凜太郎は従わなかった。青年の精液を、少しでも長く口にとどめて味わっていたかった。
 青年は慣れたしぐさでシャワーの温度を調節すると、凜太郎の体を流し始めた。きっと、深夜でも温水が出るような設備になっているのだろう。
 青年はまるで面倒見のいい先輩が後輩をいたわるようなしぐさで、終始やさしいまなざしを投げかけながら湯をかけ流してくれる。
 偶然とはいえ、真夜中に体操部のロッカー・ルームに忍び込み、青年のユニフォームを盗み出した自分に、彼はなぜこんなにもやさしく接してくれるのか。
 そもそも青年はなぜ凜太郎の体を欲したりしたのか。
 大学の運動部では珍しくないという絶対服従的な主従関係の流れで、凜太郎に声をかけたのだろうか。
 意中の彼女が風邪か何かで応じてくれずに、溜りに溜まった性欲のはけ口として恰好の獲物と青年の目に映ったのかもしれない。
 などと、埒もないことをつらつら思い巡らしていると、見つめるこちらが照れくささで消え入りそうな、ひどく切なげな表情を青年が投げかけた。
「赤澤、俺を警察に突き出してもいいんだぜ。理由はどうあれ、未成年のお前にこんな無理を強要してしまったんだからな」
「そんな、強要だなんて……。ぼくは自分から望んであなたに……」
 抱かれたんです、そうハッキリいおうとして、思わず咳き込んだ。
 口の中で転がしていた青年のザーメンが、うっかり気管支に入ってしまったのだ。
「大丈夫か、赤澤。俺を許してくれるのか?」
 青年は素早い動きで、やさしく背中をさすってくれる。
 イメージ通りの好青年、どこまで知ってもあこがれの対象となり得る彼の人となりに、凜太郎は胸に秘めた青年への想いがいっきに膨れ上がるのをどうにも抑え切れなかった。
 暖かな春の草原にも似て、手触りの柔らかな青年の胸の縮れ毛の上に、そっと頬をうずめて寄りかかった。
 シャワーの水流が勢いよく降り注ぐ中、何もかもが夢のようだった。
 身も、心も、先ほど達した幸福の余韻がいまだ中心に渦巻いていて、青年にしてみればほんの憂さ晴らしに過ぎなかったであろう凜太郎との性処理行為に、再びなけなしの夢を賭けてしまいそうだった。
「それにしても、奇遇だな。こんな時間、こんな場所でお前に会えるなんてな」
 ボディ・シャンプーの液を手のひらに撫でつけ、自分と凜太郎の双方を洗いながら、青年はいった。
「え……?」
「お前が着ていたユニフォーム、それを取りに来たんだ。明日の午後から、東京に遠征なんだ。2日後に本戦でね。でも、まさか俺のユニフォームをお前が着てるだなんて、考えてもみなかったぜ」
「ほ、ほんとごめんなさい。ぼく、つい出来心で……」
「誤解するなよ。俺は責めてるんじゃない。うれしかったんだ。でも、なぜ俺のユニフォームなんだい?」
「ぐ、偶然なんです。偶然ロッカーで見つけたのが、あなたのだったというだけで……。だけど、体操部のユニフォーム、前からあこがれてて、一度着てみたいと思ってたし、ぼくも、それがあなたのものだなんて知らずに。本当にごめんなさい。試合に使う大切なユニフォームを、男のぼくなんかが穢してしまって」
「いいって、いいって。俺、けっこう喜んでるんだから。だって、こんなに可愛いお前が着てくれたんだぜ?今度の試合は絶対にいい記録が残せると信じてるよ」
「可愛いって……、ぼくがですか?」
「あぁ、まぶしいほどにな。バイトの最中、初めてお前に気づいた時は、そりゃ衝撃だったさ。だって、まるで地平線の下の朝陽に輝き方を教えてるような抜群のルックスの子が、カーテンを開けて2階の窓から食い入るように俺のこと見てるんだもんな。直視するのがまぶしくて、俺、思わず靴紐を結ぶフリして横目で確め直したんだ。本当に可愛いと思った。俺がいままでに目にした、どの男の子よりもね」
「でも、でもそれじゃ、あれは……」
「あれ?」
「だって去年の暮れ、桜庭さんのバイト先まで散歩した時に、偶然聞いてしまったんです。桜庭さんが足にケガをしたらしくて、今日くらい休んだらどうだといった販売店のおじさんに、あなたはいいました。リハビリに自転車はちょうどいいのだと。それに、休んだら自分のことを待っていてくれる彼女に悪いのだとも」
 凜太郎は忘れかけていた心の傷を思い出して、しゅんとなった。
「彼女だって?……俺、そんなことひと言もいってねぇぞ」
「彼女とはいってません。でも、販売店のおじさんが、どこのどいつだ、堅物のお前が色気づくくらいの女だから、さぞかしべっぴんなんだろうな、って。そしたら桜庭さん、まったく否定しないで笑ってて、あの時、ぼくはあなたのことはあきらめようと決心したんです。だって、どんなにあこがれて好きでいても、彼女がいるのならしょうがない。好きでいたって自分が惨めになるだけだ、って……」
 青年は一瞬キョトンとした顔でフリーズし、その後、腹を抱えて大声で笑い出した。分厚い胸板に薄っすらと生えたうぶ毛のじゅうたんや、下腹部から線を引いてデルタへと続く豊かな茂みが、いっせいにシャワーの湯を弾き飛ばしてキラキラと輝いた。
 凜太郎はその笑いが何を意味するのか理解に苦しみ、ただぼぉーっと青年の顔を見つめていた。
 やがて、ひとしきり笑い終えて真顔になると、青年は樹脂張りの壁に凜太郎の背中を押しつけて、その上からギュッと抱きしめて来た。
 凜太郎はわけがわからず、両腕を脇にぶら下げたままでいた。
「それは幻の彼女だよ、坊や。店のオヤっさんが勝手に作り上げた、想像上の人物だ」
「でも桜庭さん、全然否定しなかった」
「いいかい坊や、よく聞くんだ。どこの世界に、俺の想い人は毎朝2階の出窓に姿を見せてくれる可愛い男の子なんです、俺はその子を見かけるだけで胸がドキドキして、どうしようもないんですよ、なんてバイト先のオヤジにカミング・アウトする男がいるんだい?そうだろう?不法侵入の可愛い盗賊さん」
 凜太郎の耳もとに意地悪くささやきながら、青年の裸の腰の中心がゆっくりとうねり始めた。
 それと同時に、青年の腕が凜太郎の両腕を高々と壁に押し上げて、耳や唇や首すじや両腋、それに乳首やわき腹など、およそ目の前に露出した皮膚という皮膚を舐めながら同時に愛撫し始めた。
 凜太郎の口からはたまらず幸福に満ちた溜め息が漏れ、熱病に浮かされた少年さながらにあえぎ出した。
 2回戦の勃発かと思われたその時、
「……俺、そろそろ配達に行かないと」
 青年が名残惜しげにいいながら、湯気立ち昇るシャワー・ルームに静止した。
 凜太郎はすぐには納得できなかったが、せめて別れ際だけでも綺麗にと思い、青年の野太い首すじに両腕をまわしてすがりつき、男女を通して生まれて初めて、心からの愛の告白を試みた。
「あの日、朝もやの中にあなたの姿を見つけた時から、ぼくは毎晩、夜が明けるのが待ち遠しくてなりませんでした。新聞を届けに来るあなたに早く会いたくて。でも、いまはそうじゃない。夜明けの別れがこんなに切なく、悲しいものなら、朝なんか永遠に来なければいい。ぼくはずっと、あなたにおやすみをいい続けていたい。それくらい好きです、桜庭さん、心から」
「それ、確かシェイクスピアの有名なセリフだな。なんか俺、ロミオになったみたいでくすぐったいけど、そうじゃないよな。だって俺たちには当面、なんの障害もないんだ。大好きだぜ、お前のこと。そしてありがとうな」
「桜庭さん……」
「俺の尊厳とプライドに懸けていわせてもらう。お前のこと、精一杯大切にする。だから、よかったら俺とつきあってくれないか」
「も……もちろんOKですよ。やった!ビンゴだっ!!」

 早起きは三文の徳と世の中ではいうけれど、この場合、より大きな徳を手に入れたのはどちらだったのだろう。
 いずれにしても、赤澤凜太郎と桜庭勇作の『窓辺に咲いた夜明けの恋の物語』は、雲間に昇る朝陽のように、誰知ることもなくひっそりと始まったのだった。