新しい住まいに引っ越した日、
本当に僕たち兄妹はブリタニアから見捨てられたのだと痛感した。
人の家と呼ぶにも値しないような、埃だらけの小さな箱。
明かりもなければ水道もない。
トイレと名をつけられたものが、床に穴を開けただけの簡素なものだったことは、
脚の不自由な妹には不便ではないことは、幸か不幸か…。
「ルルーシュ!」
スザクだった。息も切らさずに緑の影の中を走ってくる。
「おまえ、斧なんか取り出して何しようってんだ?
まさかそんな生白い腕して、日曜大工でもしてるっていうのか」
「うるさいな。僕だってやりたくてやってるわけじゃない。おまえのせいだ」
僕はこめかみから流れる汗を拭いながら投げやりに言った。
ブリタニアの夏では、こんなに顔が熱くなることはなかった。
「はあ?何でオレのせいなんだよ」
「小屋だよ。どうせ暴れてあちこち壊したんだろう。お陰で後に住む者は肉体労働だ」
スザクが怪訝そうに顔を歪めた。
「確かにあの中で柔軟したりはしたけど…オレ何も壊してねーぞ!大事なオレの部屋だったんだからな!」
「嘘つけ!じゃあ何でトイレに便座がついてないんだよ。
その馬鹿力でトンカチでも使って壊したんだろう。だから今作ってるんだよ!」
勢いに任せて不満を投げつけると、スザクが大きな瞳をきょとんとさせて言った。
「ベンザ…?」
「…そうだよ。お陰でこっちはトイレすら使えやしない。床に穴が開いてるだけでトイレだなんて」
「床に穴って…それが普通だろ?」
「はあ?」
「そのまま立ちションするか、しゃがんでするかすればいいじゃないか」
「立ち…何だそれは」
少し黙り込んだ後、スザクが意地悪めいた調子で言う。
「おまえ立ちション知らないのか?」
「はあ?」
スザクは腹を抱えて大袈裟に笑い出した。
言葉の意味はわからないが、嘲笑の意味の笑いだということはわかる。
憤りと屈辱を覚え、自然と口が尖ってきてしまう。
「じゃあおまえ、いっつもどうやって小便してんだよ」
「そ、そんなの…便座に…腰掛けてするに…決まってるだろ…」
スザクがたまらないといった感じでヒイヒイと声を立てて笑い出した。
何もおかしいことを言ったつもりはないのに、うっすらと目頭が熱くなる。
「お、おまえなんか…!」
そう言いかけたはいいが、続く言葉が見つからず、小声で馬鹿と言い残して逃げ出した。
「あ…」
走って小屋に着いたとき、肝心な斧と便座代わりのものを忘れてきたことに気付いた。
でも今戻ったら、まだスザクがいるかもしれない。
さっきのことでまたからかわれるのは御免だった。
スザクのことだから、はっきり笑うなと言えばやめてくれるだろうが、
それは傷ついたことを暴露するようで、プライドが許さない。
「……立ち…ション…?かしゃがむかしてやるって言ってたよな…」
トイレの引き戸を開けると、やはりそこにはただ穴があるだけだった。
穴の中は底なしなんじゃないかとも思えるほど深く、ひどい異臭を放つ。
「……しゃがんで……やるのか……」
不潔な部屋に入るのは気が進まないが、スザクの言うようにできれば、
何となく雪辱が果たせるような気がした。
一歩一歩近づくと、穴は以前見たより遥かに深く、また大きく見える。
「…う……」
穴を跨ぐようにして立つと、
中から生暖かい風がぴゅうぴゅうと吹いて内腿を撫でる。
この中に落ちてしまったらどうなるのだろうと考えるとぞっとするが、
日本人にできることが僕にできないなんて嫌だ。
「ちゃんと……ちゃんと跨いでれば大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ゆっくりと短パンと下着を下ろす。
次はしゃがんでするだけだ。
「ひあぁぁっ!!」
できないわけじゃないが、ブリタニア人は日本人ほど、
しゃがんだり正座したりと、脚を折りたたむことをしない。
体重を支えきれず、思わずつんのめってしまう。
「はっ…はぁっ…」
こんなんじゃ次挑戦しても落ちてしまうだけだろう。
馬鹿馬鹿しいプライドなんか捨てて、便座を取りに行った方がいい。
そう決めて慎重に立つと、急いで脱いだものを戻す。
しかしトイレになんか入ったせいだろうか、気付くとみるみると尿意が強まり、
膀胱が膨れ上がっているのがわかる。
「あっ…」
漏れそうになり、思わず股間を両手で押さえてしまう。
今すぐしないと本当に漏らしてしまうかも知れない。
どのくらいの間、忌まわしいトイレの穴の前に立っていただろうか。
かなり切迫した状態にも関わらず、穴に落ちてしまうことが怖くて、
股間を握り締めたままでいる。
「ふっ…ふぅっ…はぁっ…」
体温も心拍数も上がり、身体中を汗が流れていた。
大分消耗しているにも関わらず、もじもじと内股を擦り合わせる動作が止まらない。
きっと今僕は、ひどく赤い顔をしているだろう。
こんな姿をナナリーが見たら何と思うだろうか。
そう考えると自然に涙が流れる。
「おしっこ…おしっこ漏れちゃう……」
思わず10歳という年齢にそぐわない言葉を発してしまったとき、
恥ずかしさに片手で口を覆った。
その瞬間、ジュワッと音を立てて、股間に何か熱いものが広がる。
「やっ…あぁっ…!」
慌てて両手で抑え直し、何とか持ち堪えることができた。
「ひ、ひぁ…」
ボロボロと零れた涙は、生理的なものと精神的なもの、両方だった。
もう本当に漏れてしまう。
内股でヨロヨロと穴に近づくと、片手で股間を抑えながら、
ゆっくりとファスナーを下ろす。
ズボン越しに伝わる、アレの柔らかい感触が気色悪い。
突然眩暈がして、慌てて穴に落ちないように後ろの壁の方に体重をかける。
ペチャンと尻餅の音がするとほぼ同時に、僕は悲鳴をあげた。
そして、シャーーーーーーーッと大きな音を立てながら、勢いよく何かが溢れ出した。
瞬きする間もなくそれは、短パンを、脚を、床についた手までも濡らしていく。
「やっやぁっやだっ!おしっこっ…!おしっこ出ちゃうっ…!」
何を言ってももう手遅れだった。
股間にあてがった手も何の役にも立たず、指の隙間から虚しく流れていく。
「ひっひぐっ…うっ…ええええっ…えあああああ…」
抑えようもなく、僕は鼻からも目からも液体を零して、赤ん坊のように泣いていた。
ふと、これは本当に自分かと、何かの冗談なんじゃないかと思ったが笑えなかった。
ただ何のことはない平凡な一日だったはずだ。
それでもナナリーの好意でスザクと遊べることになった日、特別な日。
スザクの道場に行った帰りだった。
「10歳のくせにションベンちびってやんの。信じらんねー」
屈託なく投げつけられた言葉に、とうとう目から大粒の涙が零れ出てしまう。
道場のボットントイレが怖くて我慢していた僕は、帰り道でそれを言い当てられてしまった。
実際限界だったので道端しろという助言に従おうとしたが、
やり方がわからずにズボンを少し濡らしてしまった。
僕を照らす夕日も、藤堂のスザクをたしなめるような目線も、今はひどく痛い。
「スザク君も泊まり合宿のときしただろう。君に笑えるのか?」
「そっ、そんなのずっと前のことじゃん!!」
藤堂さんひどい、と悲鳴をあげながら、スザクも耳まで紅潮させて泣きそうな顔をした。
「ともかく。おいで、ルルーシュ君。手伝ってあげる」
何気なく発せられた言葉の意味が一瞬理解できなかった。
「えっ、いいですそんなの!!」
「スザク君はもう帰るから。そうだよね?」
そう言って藤堂がスザクに振り向くと、
ふてくされたような顔でスザクは、はい、と呟いた。
そう言っている間にも尿意は刻々と増す。
思わず内股を擦り合わせると、藤堂が少し笑ったような気がした。
おいでと言われ藤堂に手を引かれると、スザクに大声で名前を呼ばれる。
「ルルーシュ…その………ごめん」
スザクは言葉は乱暴だけどいいやつだ。
そんなちぐはぐさがおかしくて、顔が緩む。
その瞬間、じわっ、と股間にまた熱いものが広がり、慌てて手で押さえた。
見られてやしないだろうかと周りを見渡すと、もうスザクはいなかった。
「我慢できる?」
覗き込まれるようにして言われると、自然と涙が何条も溢れてくる。
これじゃあ完璧に小さな子供じゃないか。
「……っはい…」
「ひっ…ひっく…」
「泣かない泣かない。すぐそこだから」
本当にすぐそこ、10メートルくらい先の茂みの中だった。目の前には浅い川が流れている。
「じゃあ脱ごうか」
そう言って藤堂は向かい合わせに膝立ちすると、僕の短パンのボタンを外す。
「ルルーシュ君」
「は、い…」
「手、どけないと脱げないよ」
恥も外聞もなく、僕は人前で股間を押さえつけていた。
ギュウギュウと締め付ける手がひどく痛い。
「…ふっ……離したら、漏れちゃう……」
「一瞬だけだから」
行くよ、と言うと、藤堂は早々と下着ごと下ろす。
股の部分に失敗の痕跡が残っているのが見え、目を逸らした。
ぷるんと跳ねた僕のモノが、僅かに雫を零すが、やはり立ったままでは全ては出なかった。
「ひ、お腹痛い…おちんちん…」
痛い?と訊いて僕の頭を撫でると、藤堂は僕の両膝の裏に手を入れ、軽々と抱き上げた。
「これで出るかな?」
いくら下腹に力を入れても、一滴もでない。
「う…うああああああんっお腹痛いよお、おしっこ…おしっこ出ない…」
ついに僕は大声で泣き出してしまった。おしっこおしっこと叫びながら、冷静な自分がどこかで僕を見下している。
10歳にもなって人前で下半身を晒して、大人に排尿を手伝ってもらっている。
母親が庶民出とはいえ、少し前までブリタニアで皇子として君臨していた自分がだ。
非現実感に脳の奥が音を立ててズキズキと痛む。
「うわああああああんああああひっ、ひいぃぃっ」
「うーん…」
藤堂は僕を抱えて数歩進むと、川の中に入り中腰になった。
何もつけていない尻に、道着を着た藤堂の太腿が当たる。
ぴしゃっ。
見ると、藤堂が片手で僕の股間に水をかけている。
「出る?」
「あっ……ああ……」
みるみると尿道を液体を通っていくのがわかる。
「やっやだ藤堂さん、おしっこかかるっ」
「ん」
満足げに簡素な返事をすると、藤堂はまた両手で僕を抱え込んで真っ直ぐに立った。
ピシャアアアアアアアアと音を立て、うす黄色い液体が弧を描いていく。
「いやっ…やっ…」
全身から力が抜け、一気に汗と涙が噴き出した。
顔を中心に身体がひどく熱くなり、そのくせ身体の中を氷のような冷たさが駆け巡っているような気がした。
あっあっと声を発しながら鳥肌を立て放尿している僕はどんなに無様だろう。
定まらない焦点の中で、川の向こう岸に金に光るものを見つけた気がした。
―――――ナナリー!!
今日が病院の検診だということは知っていた。
間違いなくその帰りなのだろう。前後を歩く黒いスーツの男たちは送迎をしたはずだから。
ついていくと聞かなかった僕を、たまにはスザクさんと遊んだらどうですか、と一人で行ったのだ。
「や…やだ……」
僕に気付いた男が一人、こちらを指さしてニヤニヤと笑っている。
「いや…嫌だやめろ…やめろやめろやめろ……」
そうは言っても、川を叩く尿のバチバチというえげつない音は隠せない。
向こう岸には聞こえているだろうか。僕には聞こえる。
川の流れも、尿の音も、心臓の音も、やかましい鳥が鳴く音も、とてもうるさい。
何の鳥かはしらないが、頼むからもっと派手に鳴いてくれないか。巨大になって僕を踏み潰してくれてもいい。
男がナナリーの後ろの相棒に何か言い、もう一人も肩を上下させて笑った。
そしてそいつは背中を折り曲げると、ナナリーの方に顔を近づけていく。
「やめろっ…やめろやめろ殺す…殺す殺す殺す殺す殺す殺すぅっ…」
藤堂の手に少し力が入ったのも気にならなかった。
僕は頭を抱え、両目を多い、顔を洗うかのように手を上下させた。
それでも厚顔無恥に尿を垂れ流し続けるこの身体が憎い。
男は顔を片手で隠すと、妹の顔のすぐ傍で止まっていた。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺してやる殺せっ嫌だっ…」
最低だ。あの男はナナリーに何を言った?
銃があるなら今すぐ撃ち殺してやりたい。それより先に僕が死ぬべきだ。今すぐにでも消えてしまいたい。
ナナリー、僕の可愛いナナリー。たった一人の妹。僕が守らなくてはいけないもの。その僕が今、何している?
不思議そうにこちらに向けられたナナリーの顔が、微笑に変わったとき、僕は大きく目を見開いた。
三人は笑い合い、何か喋ると、どこかへ行ってしまった。
ちょうどそのころ、僕の放尿は収まりを見せる。最高のタイミングだ。
尿でべとついた両手で口と鼻を押さえながら、僕の身体は勝手に泣いていた。
膝で立ち、足と頭を川に浸して、下半身丸出しのまま滑稽にここにいる。
「ルルーシュ君!」
藤堂は僕の首を引っ張ると、何やってるんだと僕を叱った。
「妹がまだ近くにいるかもしれない!大声出さないでください!」
藤堂さんなんて嫌いだ、もう死にたい、と口が勝手に言っていた。
大丈夫、大丈夫だから、と言うと、藤堂は僕の尻や脚に水をかけてどこかに行った。
「ルルーシュ君」
話しかけるなと思った。
「下の服洗ったから、これ着よう。濡れてるけどいいよね?」
僕は服を差し出されると、奪い取って川に叩きつけた。何をやっているのか自分でもわからない。
「ひっぐ…ひっぐ…う、ひっく」
「仕方ないな…おいで」
藤堂は僕の手首を強引に掴むと、陸の方に引っ張っていった。
「触るな!」
僕は藤堂を殴ったり蹴ったりしながら金切り声をあげたが、いずれも当たらなかった。
汚い日本人め、全員死んでしまえ、僕はブリタニアの皇子だぞ、などと口走ったが、
目の前の男は無表情に僕に下着やズボンを着せていく。
終わり、と言って軽く尻を叩かれた直後、藤堂を狙った足が命中した。
一瞬頭が振動する。平手だった。
「送ってあげるから、もう拗ねるのはやめなさい」
「やだ!やだ!」
暴れまわる僕をきつく抱き上げると、藤堂は淡々と童話を始め出した。
僕も知っている、子供だましの古い話だ。
僕は、下らない、面白いつもりか、頭が腐っている、などと言いながら、鼻水を出してめちゃめちゃに泣いた。
藤堂はたまに童話を中断させ、胸元で僕の洟や涙を拭き、頭や背中をさすった。
僕の悪態は永遠に続いたが、家から100メートルのところになると、自然に収まってきた。
「あったかくして寝るんだよ」
そう言い残すと、藤堂は僕のもう一度僕の顔を拭う。
藤堂の服は僕の涙や洟や、水や尿でぐちゃぐちゃに汚れている。
男はぎこちなく笑って踵を返した。
僕はぼんやりとそれを見つめた後、思い出したように腕でごしごしと顔を拭いた。
薄っぺらいドア一枚が、こんなに重く感じたのは初めてのことだ。
「お兄様!!」
息が上手くできない。嗚咽が飛び出そうになり、慌てて口を覆う。
「ナ………………ナナリー……………」
僕は髪の毛をぐちゃぐちゃに掻き回しながら、必死に平静を取り繕っていた。
妹の目が見えないことが救いになることがあるとは思いもしなかった。
「………………検査の結果は………………………………どうだった………………?」
「いつも通りでした!それより聞いて、お兄様。今日、すごいものを見たんです!」
床が天井になった気がした。泣き声を押さえようと手で顔を潰すと、指の隙間から泡状の鼻水がグプグブと溢れ出た。
「すっごくびっくりしちゃった!青い鳥を見たんです!水色でも紺色でもない本当に真っ青な鳥!」
「………………………………………………え………………?」
「あ、と言っても私には見えないんですけど…青い鳥だったんですって。
映画で聴くように綺麗な声で鳴くの。なんだか幸せになれそう」
僕自身が水にでもなったように、全身から汗が噴き出した。目が痛いくらいにとめどなく涙が落ちてくる。
「…………………そ、そうなんだ………………。よかったじゃないか………………」
「私、祈ったの。ずーっとお兄様が幸せで笑顔でありますようにって」
「……………っナナリー…………」
「お兄様?どうかされましたか?」
「…………いやっ、ナナリーにとって楽しい一日だったならいいんだ。それが一番いい。
それより僕のことを祈っちゃだめじゃないか。ナナリーの幸せを願わないと」
「あっ、忘れてました!じゃあ今訂正します。青い鳥さん、私たちの幸せが永遠に続きますように!」
僕らはケラケラと笑い合って夕飯を食べた。
布団に入り、今日のことを反芻しながら、あれは全部夢なのではないかと思うようになった。
枕の横に干してある服を、不思議に見つめて眠りにおちる。
一週間引き篭もった後、藤堂とスザクに会ったが、二人ともあのときのことは口にしなかった。
あれ以来僕は水筒に水を入れて出歩くようになった。