古色蒼然 水

なぜあんな古色蒼然としたものを有り難がるのか、理解しかねる。
苔蒸した黴臭い、陰気な場所は、何百年も前からこの辺鄙な町を見守ってきたという。
だからどうした。
俺は宗教、儀式、典礼その他の因習が嫌いでならなかった。
特に葬式仏教とあだ名されるように、人の死に際を禿鷹の如く狙っている仏教には反吐が出るほどだ。
元々仏教というものはインドから伝来したもので、ブッダを敬うはずの宗教が戸籍管理の必要から国教になり、屍を喰い荒らす政治行為に発展したというわけだ。
しかも宗教法人には税金がかからない。
小さいながらも事業を経営している俺としては怒りの元でもある。
本来ならこうしたものに関わらずに済むはずだったのが、祖父の急死による相続でとある片田舎に住まわなければならなくなってしまったのだ。
ここでは旧態依然とした地方自治システムがのさばっており、さらに悪いことに、月に一度開かれる水払いの儀に参席しなければここに住むことを許されない。
砂利の敷き詰められた神社の境内を鳥居から石でできた御神水場まで行き、その水を本殿の前の石にかけるのだが、今の季節はなかなかの骨折りだ。
しかし、そんななかで一つだけこの町に来てよかったと思うことがある。
水払いの儀で出会った信太少年だ。

彼はいかにも田舎の少年。健康的な肌からは太陽の匂いがする。
ショートカットに、顔はかわいいというよりも端整。
しかしこの土地が作り上げたのだろうか、とても素直でかわいらしい性格をしている。
「あんちゃんなんでお払いせんのじゃ?」
この爺さんの方言はうっとうしいだけだったが、こんな少年が言うとなんと似つかわしいのだろう。
「あんまり、好きじゃないんだ。」
「変なの。こんなん、好きも嫌いもないじゃろ。」
好きも嫌いもない、か。
子供たちは儀式の意味を知らず幼いころからそれを叩き込まれ、批判なく受け入れて伝えていく。
そこに何の意味がある?
俺はこの少年がここでこうして老人たちと枯れた時間を過ごしていることが残念でならなかった。
それでも一心に儀式ごとをしている少年の姿を眺めるのはそう悪い気がすることでもなく、うららかな日差しの下、信太少年の一挙手一投足を眺めていた。
神仏などまったく信じない俺でも、彼が運ぶあの水には、何か神通力のようなものがありそうな気がする。
日の光を反射してキラキラとまるで宝玉か何かのように。
木で作った柄杓は年数を経てまるで信太の肌のようだ。
「あんちゃんまた俺の脚見とったじゃろ。」
「ははは、きれいな脚。」
「・・・変態じゃ。」
悪態をつくものの照れ笑い。
血のつながりはまったくないけど、まるで従兄弟のような、そんな関係だ。

木漏れ日の下、石段を降りていく。
信太は一段一段跳ぶように降りていく。
「信太ー」
下にいる彼に呼びかける。
「なんじゃー?」
振り返る信太。その笑顔がまぶしい。
「なんでもない。」
「あんちゃん今日変じゃぞ、あ、いつものことかー」
「待て!」
まるで転がるように降りて行く信太に追いつけるわけでもないが、息を弾ませながら石段を駆け下りるなんて、東京にいたころには想像もつかなかった。
こっちの生活も悪くないな、なんて。
この瀬戸内の土地には、雪はほとんど降らない。
常緑樹の下、虫の声も無くしんと二人の足音と声だけが響く。
「仕事終わったら帰るんか?」
珍しくしおらしい声を上げる。
「なんだ、寂しいのか?」
「な、んなわけあるかい。」
そういう信太の声は少しかすれている。
実際俺は、もうすぐまとまる財産分与の仕事が終わったら元の家に帰る予定だった。
こっちでも仕事ができるとはいえ、やはり東京でやる比にならない。
「仕方ないだろ。なんだったら信太、東京遊びに来るか?」
「嫌じゃ・・・」
年の割にはしっかりした彼らしくなく、どこかすねたような口調。
「あんちゃん、」
「なんだ?」
「今夜、三つ山の下に来て。」
信太はそれだけ言うと自分の家へ向かって走り去ってしまった。

三つ山。
それは昔、隣の村まで行くのに三つ山を越えていかなければならない方向にある山のことを指した俗称だった。
そして、三つも山を越えていく村人を清めるために始まったのが、水払いの儀、というわけだ。
神社はその三つ山の中腹にある。
信太に呼び出されたのは初めてだ。
しかし・・・今夜、か。
今夜は隣町、とはいっても三つも山を越えていくところではなく、西に数キロほどの役場へ書類を納めに行くはずだった。
儀式のせいで書類の完成が遅れ、夜間窓口に出さなければならなくなってしまったのだ。
今夜っていったい何時のことなんだ。
彼らにとってよるとは日が沈んで、空が濃紺に染まるころを指していた。
今の季節だとちょうど六時ぐらいか。
間に合うだろうか。
こんなときに限って焦ってしまい、完成間近の書類を書き損じて、一から書き直し。
時間が無い。
役場で待たされた。
帰りは仕方がない、高速を使うか。
ほんの数キロだけど。
それが間違いだった。
まさか、目の前で馬鹿な走り方をする二輪車が転倒するなんて。
俺はそのまま意識を失ってしまった。

壊れたバイクの光で真っ白になった視界。
再び目を覚ましたのは真っ白なところ。
ここはどこだろう。
まさか。
いや、そんなことは無い。
そんなことはありえない。
死ぬなんて。ましてや、死後の世界なんて。
「あんちゃん!あんちゃんが目を覚ました!」
顔を覗かしたのは、小麦色をした信太だった。
「あんちゃん、俺のことわかる?ちゃんと覚えてる?」
記憶喪失の心配でもしてるんだろうか、そんなことはめったに無いのに。
そんなところがちょっと信太らしいというか。
「信太。」
体を起こすと全身に激痛が走った。
思わず声を上げてしまう。
そっと添えてくれる信太の心配そうな手。痛みを感じなくさせてくれる。
「ありがとう。」
体を起こしたときに見えた信太の手と足。
裸足で、真っ赤になって、無数の傷が出来ていた。
「どうしたんだそれ。」
「どうでもええじゃろ。」
信太はさっとその手足を隠した。
ぼそぼそと小さな声で呟く。
「あんちゃんつれて行く悪魔、お払いしとったんじゃ。」

なんということだろう。
いろいろなことが頭に溢れてきて、しばらくの間まともに考えることができなくなっている。
こんな俺のために、この少年は冷たい水で何度も何度もお払いをしていたというのだろうか。
自分が否定していたその儀式に、救われたというのだろうか。
それならそれでもいい。
「あんちゃん、」
珍しく信太がしがみついてきた。
薬臭い病室の中に、甘く暖かい太陽の匂いが溢れた。
「あんな、おとついの晩な、俺、あんちゃんに・・・」
「ん?」
深呼吸一つ。信太の息、暖かい。
「好きって言おうとおもっとったんじゃで。」
何も言えず、ギプスのついた手も動かすことができず。
俺はただ信太の頭にほほをのせた。
「俺もじゃ・・・あ、うつった。」
「「じゃ」じゃって! あんちゃんもこっち住んでよ。」
そうだな、退院したらこっちに住民票を写そう。
そして、次の水払いの儀には、朝一番に行こう。
信太と一緒に。